・・・らかき乙女か、誰と指呼できぬながらも、やさしきもの、同行二人、わが身に病いさえなかったなら、とうの昔、よき音の鈴もちて曰くありげの青年巡礼、かたちだけでも清らに澄まして、まず、誰さん、某さん、おいとま乞いにお宅の庭さきに立ちて、ちりりんと鈴・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・それにまた、庭木の雪がこいが、たいへんだ。」「やっかいなものですね。」と居候の弟は、おっかなびっくり合槌を打つ。 兄は真面目に、「昔は出来たのだが、いまは人手も無いし、何せ爆弾騒ぎで、庭師どころじゃなかった。この庭もこれで、出鱈・・・ 太宰治 「庭」
・・・光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。 われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ。「よも・・・ 太宰治 「葉」
・・・鄙たりと雖も、たゆまざる努力を用いて必ずやこの老いの痩腕に八郎にも劣らぬくろがねの筋をぶち込んでお目に掛けんと固く決意仕り、ひとり首肯してその夜の稽古は打止めに致し、帰途は鳴瀬医院に立寄って耳の診察を乞い、鼓膜は別に何ともなっていませんとの・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ 戸内を覗くと、明らかな光、西洋蝋燭が二本裸で点っていて、罎詰や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥った、口髭の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展げて見ていた。 そばを見ると、暗・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされる人が多いらしい。このいわゆる数学的低能者につい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・よく見るとしっぽに近い背面の羽色に濃い黒みがかった縞の見えるのが雄らしく思われるだけである。あひるの場合でもやはりいわゆる年ごろにならないと、雌雄の差による内分泌の分化が起こらないために、その性的差別に相当する外貌上の区別が判然と分化しない・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・師宣や祐信などの絵に往々故意に手指を隠しているような構図のあるのを私は全く偶然とは思わない。清長などもこの点に対するかなり明白な自覚をもっていたように思われる。このアペンディックスが邪魔にならないようにかなりな苦心を払っているような形跡が見・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・もしそういう文献に通じた読者があったら教えを請いたいと思うのである。 私の調べてみたのは主として人物、特に女性を描いたものである。しかし以下にいうところの命題の大部分は、適当に翻訳する事によって風景画にも応用されるだろうと思っている。・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
出典:青空文庫