彼は小説家だった。下手な小説家だった。その証拠に実感を尊重しすぎた。 彼は掏摸の小説を構想した。が、どうも不安なので、掏摸の顔を見たさに、町へ出た。 ところが、一人も掏摸らしい男に出会わなかった。すごすご帰りの電車・・・ 織田作之助 「経験派」
・・・新しい小説の構想が纒まりかけて来た昂奮に、もう発売禁止処分の憂鬱も忘れて、ドスンドスンと歩いた。 難波から高野線の終電車に乗り、家に帰ると、私は蚊帳のなかに腹ばいになって、稿を起した。題は「十銭芸者」――書きながら、ふとこの小説もまた「・・・ 織田作之助 「世相」
・・・題を決めるのに一日、構想を考えるのに一日、たのまれてから書き出すまでに二日しか費さなかったぐらいだから、安易な態度ではじめたのだが、八九回書き出してから、文化部長から、通俗小説に持って行こうとする調子が見えるのはいかん、調子を下すなと言われ・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・彼は時代の悪を憎み、政治の曲を責め、教学の邪を討って、権力と抗争した。 人はあるいは彼はたましいの静謐なき荒々しき狂僧となすかも知れない。しかし彼のやさしき、美しき、礼ある心情はわれわれのすでに見てきた通りである。それにもかかわらず、何・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・普通の高僧のように彼を見るのみでは、彼のユニイクな宗教的性格は釈かれない。予言者とは法を身に体現した自覚をもって、時代に向かって権威を帯びて呼びかけ、価値の変革を要求する者である。予言者には宇宙の真理とひとつになったという宗教的霊覚がなけれ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・まもなく、病院列車で後送になり、内地へ帰ってしまうだろう。――病院の下の木造家屋の中から、休職大佐の娘の腕をとって、五体の大きいメリケン兵が、扉を押しのけて歩きだした。十六歳になったばかりの娘は、せいも、身体のはゞも、メリケン兵の半分くらい・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 日本橋呉服町に在る宏壮な建築物の二階で、堆く積んだ簿書の裡に身を埋めながら、相川は前途のことを案じ煩った。思い疲れているところへ、丁度小使が名刺を持ってやって来た。原としてある。原は金沢の学校の方に奉職していて、久し振で訪ねて来た。旧・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・虚無思想の中心は、ツルゲネフの作が定義するところによれば、あらゆるものを信ぜず、あらゆる権威に抗争する点に存する。しかしこの思想を一の人生観として取り上げる時、そこに当然消極か積極かという問題が起こり来たらざるを得ないことは、すでにヨーロッ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ いろいろ小説の構想をしているうちに、それも馬鹿らしくなって来て、そんな甘ったるい小説なんか書くよりは、いっそ自分でそれを実行したらどうだろうという怪しい空想が起って来た。今夜これから誰か女のひとのところへ遊びに行き、知らん振りして帰っ・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ 増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月の如くきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、ど・・・ 太宰治 「東京八景」
出典:青空文庫