・・・鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌ぎに長い竹竿を用意して荒天のなかを救助に向かった。しかし現場へ行って見ても小さなランチは波に揉まれるばかりで結局かえって邪魔をしに行ったようなことになってしまった。働いたのは島の海女で、激浪のなかを潜っては屍・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻や蜂の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく。昆虫。昆虫。初冬といっても彼らの活動は空に織るようである。日光が樫の梢に染まりはじめる。するとその梢からは白い水蒸気のよ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻の光点が忙しく行き交うていた。「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・わが名は、狭き門の番卒、困難の王、安楽のくらしをして居るときこそ、窓のそと、荒天の下の不仕合せをのみ見つめ、わが頬は、涙に濡れ、ほの暗きランプの灯にて、ひとり哀しき絶望の詩をつくり、おのれ苦しく、命のほどさえ危き夜には、薄き化粧、ズボンにプ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ 急速な運動を人間の目で見る場合には、たとえば暗中に振り回す線香の火のような場合ならば網膜の惰性のためにその光点は糸のように引き延ばされて見えるのであるが、普通の照明のもとに人間の運動などを見る場合だとその効果は少なくも心理的には感じら・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 川口屋の女主お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。この事は風俗画報『新撰名所図会』に『好古叢誌』の記事を転載して説いているから茲に贅せな・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されてその移動班に助けられたのであった。この放射光線車は軍隊の間で「小キュリー」と親密な綽名で呼ばれた。キュリー夫人は戦争の長びくことが分るに・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・ 六年制であってさえ、この実情であったのだけれども、それが国民学校となり八年制となったとき、状態はどのように好転するだろう。学校の入費の何割が国庫で負担されることになるのだろうか。この点に切実な生活からの要望があると思う。六年で尋常が終・・・ 宮本百合子 「国民学校への過程」
・・・ヒューマニズムという豊穰な苗床さえ当時日本の文芸評論から理論性が消滅しつつあるという重大な危機を好転させ得なかった事実を思いあわせれば、長篇小説、社会小説が本質的な現実把握と文学的実践力を包蔵し得ないままに、ジャーナリズムの場面を賑わした必・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・一人の天才を期待することで、世界の歴史は好転しないし、人民の苦悩は解決しない。一握りの権力者が自分の利益から選択した外交――国際関係の運びかたで、わたしたちの生活はこんなに傷つけられた。王と王との国際性から、資本家の・軍人の国際性、それが第・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
出典:青空文庫