・・・随分遠い道のりだったので、私は歩きながら、何度も何度も、こくりと居眠りしました。あわててしぶい眼を開くと蛍がすいと額を横ぎります。佐吉さんの家へ辿り着いたら、佐吉さんの家には沼津の実家のお母さんがやって来て居ました。私は御免蒙って二階へ上り・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・葡萄酒のブランデーとかいう珍しい飲物をチビチビやって、そうして酒癖もよくないようで、お酌の女をずいぶんしつこく罵るのでした。 「お前の顔は、どう見たって狐以外のものではないんだ。よく覚えて置くがええぞ。ケツネのつらは、口がとがって髭があ・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめいに強調されて見える。それだから大写しの顔や手は、決して「芝居」をしてはいけないことになっている。それをするといやみで見ていられなくなるのである。 それだのに、頭の悪い監督の作った映画では、ちょ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・に「添えばそうほどこくめんな顔」は非同時性モンタージュであり、カメラの回転追跡である。こういう例をあげれば際限はない。他日適当の場所で細説したいと思う。 録音と発音の機械的改良が進展して来る一方でまたトーキーファンの聴覚が訓練されて来れ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 大切の越後獅子の中ほどへくると、浅太郎や長三郎の踊りが、お絹の目にも目だるっこく見えた。 川端へ出ると、雨が一雫二雫顔に当たって、冷やかな風がふいていた。 家へ帰ってくると、道太は急いで著物をぬいで水で体をふいたが、お絹も襦袢・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・土堤の斜面はひかげがこくなり、花をつけた露草がいっぱいにしげっている。 つれの、桃色の腰巻をたらして、裾ばしょりしている小娘の方が、ときどきふりかえって三吉の方をにらむ。くろい、あごのしゃくれた小さい顔は、あらわに敵意をみせていた。女は・・・ 徳永直 「白い道」
・・・年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢に等しく、いつも重そうな瞼の下に、夢を見ているようなその眼色には、照りもせず曇り・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・自分が七赤だか八白だかまるっきり知らなければ文句はないが、自分は二黒だと知っていれば、旅行や、金談はいけない、などとあると、構わない、やっつけはするが、どこか心の隅のほうにそいつが、しつっこくくっついている。「あそこの家の屋根からは、毎・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・そして心配そうな息をこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊帳の外にここの主人が寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分夢のように見た。(戻さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続けて叩いていた。(亦何だか哀れに云って外へ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ これほどの広い地域をみたす日本のこく倉の稲田は、つまるところ、現在の世の中のしくみでは、やはり一つの最も投機的な商品ではないのだろうか。もし、この広大な稲田全体が、いつわりない農民の生産として、それを作る農民の生活にもかえってゆくもの・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
出典:青空文庫