・・・ほんとに、ほんとに厭なこった。もうお前さんと同じ卓に坐っているのも厭だわ。わたしがこの上沓に鬱金香の繍取をさせられたのは、お前さんが鬱金香を好いているからだわ。それから。(上沓を床に擲夏になるとメラルへ行って・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。 自動車がくねくね電光型に曲・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・かちゃんと落っこってバラバラに毀れた。それをまた組立てて綱渡りをさせるのが自分の責任だがどうしたらよいかと思い惑っていると、周囲のラウベンコロニーの青い小屋からドイツ人の男女がぞろぞろ出て来た。 なんだかこんな風な夢であったのですが、今・・・ 寺田寅彦 「御返事(石原純君へ)」
・・・二つは門前の道路を左右へ、いま一つは橋をわたって、まっすぐにこっちへ流れてくる。娘、婆さん、煙草色の作業服のままの猫背のおやじ。あっぱっぱのはだけた胸に弁当箱をおしつけて肩をゆすりながらくる内儀さん。つれにおくれまいとして背なかにむすんだ兵・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ すると真闇な道の傍で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。女は身を空様に、両手に握った手綱をうんと控えた。馬は前足の蹄を堅い岩の上に発矢と刻み込んだ。 こけこっこうと鶏がまた一声鳴いた。 女はあっと云って、緊めた手綱を一度・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ヘッヘッ、消防組、青年団、警官隊総出には、兎共は迷惑をしたこったろうな。犯人は未だ縛につかない、か。若し捕ってりゃ偽物だよ。偽物でも何でも捕えようと思って慌ててるこったろう。可哀相に、何も知らねえ奴が、棍棒を飲み込みでもしたように、叩き出さ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・殊にあらしの次の日などは、あっちからもこっちからもどうか早く来てお庭をかくしてしまった板を起して下さいとか、うちのすぎごけの木が倒れましたから大いそぎで五六人来てみて下さいとか、それはそれはいそがしいのでした。いそがしければいそがしいほど、・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・「へえ、夏場ですととてもそれでは何でございますが、只今のこってすから……」 彼等はそこを出てから、ぶらぶら歩いて紅葉屋へ紅茶をのみに行った。「陽ちゃんも、いよいよここの御厄介になるようになっちゃったわね」 ふき子は、どこか亢・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・『何さ、わしが情けないこったと思ったのはお前さんも知らっしゃる通り、この一条の何のというわけでない、ただ嘘偽ということであったので。嘘ほど人を痛めるものはないのじゃ。』 終日かれは自分の今度の災難一件を語った。かれは途ゆく人を呼び止・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「ふむ、よう死なんでこっちゃして?」「死にゃお前結構やが、運の悪い時ゃ悪いもんで、傷ひとつしやへんのや。親方に金出さそうと思うたかて、勝手の病気やぬかしてさ。鐚銭一文出しやがらんでお前、代りに暇出しやがって。」「そうか、道理で顔・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫