・・・「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先故郷に帰り、親族に托してあった山林田畑を悉く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合やらで思わず・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ ところで自分免許のこの老熟先生も実はさすがにまるきり老熟し得ないと見えて、実際界の事がうまく行かず、このごろは家にばかり引きこもっていて多く世間と交わらない。その結果でもあろうかウォーズウォルス詩集までが一週間に一、二度ぐらいは机の上・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そうして拵えると竹が熟した時に養いが十分でないから軽い竹になるのです。」「それはお前俺も知っているが、うきすの竹はそれだから萎びたようになって面白くない顔つきをしているじゃないか。これはそうじゃない。どういうことをして出来たのだろう、自・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・無念骨髄に徹して歯を咬み拳を握る幾月日、互に義に集まる鉄石の心、固く結びてはかりごとを通じ力を合せ、時を得て風を巻き雲を起し、若君尚慶殿を守立てて、天翔くる竜の威を示さん存念、其企も既に熟して、其時もはや昨今に逼った。サ、かく大事を明かした・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・五度熟した麦の穂は復た白く光った。土塀、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。 最早青年・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ずいぶん永いこと眠り、やがて熟し切った無花果が自然にぽたりと枝から離れて落ちるように、眠り足りてぽっかり眼を醒ましましたが、枕もとには、正装し、すっかり元気を恢復した王子が笑って立って居りました。ラプンツェルは、ひどく恥ずかしく思いました。・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜のない煙筒のない長い汽車を、支・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。 板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立っているのをめざとくも見た。 肉づきのいい、頬の・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・至るところの山腹にはオリーブの実が熟して、その下には羊の群れが遊んでいます。山路で、大原女のように頭の上へ枯れ枝と蝙蝠傘を一度に束ねたのを載っけて、靴下をあみながら歩いて来る女に会いました。角の長い牛に材木車を引かせて来るのもあれば、驢馬に・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・しかし一つの曲に修熟してその和音や旋律を記憶して後にそのレコードの音を専心に追跡しあるいは先導して行く場合にはかなりの程度までこの選択ができるように思われる。これは修練によってだれでも自然にできるだろうと思われるが、かつてある学者の試みたよ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫