・・・ わたしは何故百枚ほどの草稿を棄ててしまったかというに、それはいよいよ本題に進入るに当って、まず作中の主人公となすべき婦人の性格を描写しようとして、わたしは遽にわが観察のなお熟していなかった事を知ったからである。わたしは主人公とすべき或・・・ 永井荷風 「十日の菊」
一 枇杷の実は熟して百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込の蔭には、七度も色を変えるという盛りの長い紫陽花の花さえ早や萎れてしまった。梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文芸が吾人に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すと云う意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 焦け爛れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆いてしばらくはと共に傾くと見えしが、奈落までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、倒しまに崩れかかる。取り巻くの一度にパッと天地を燬く時、の上に火の如き髪を振り乱して佇む女がある。「クララ!・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。 右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の幽冥説に惑溺すること、はなはだ少なしといえども、その、これに惑溺せざるは、ただ一時仏者に敵するの熱心に乗じたるものにして、天然の真理原則を推究し・・・ 福沢諭吉 「物理学の要用」
・・・しかるにこれに反対のやつは柿であって柿の半熟のものは、心の方が先ず熟して居って、皮に近い部分は渋味を残して居る。また尖の方は熟して居っても軸の方は熟して居らぬ。真桑瓜は尖の方よりも蔓の方がよく熟して居るが、皮に近い部分は極めて熟しにくい。西・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・どこからか小梨を貰ったと云って先生はみんなに分けた。ぼくたちはそこで地図を塗りなおしたりした。先生はその場所では誰のもいいとも悪いとも云わなかった。しばらくやすんでから、こんどはみんなで先生について川の北の花崗岩だの三紀の泥岩だのまではいっ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ それに顔といったらまるで熟したりんごのよう、ことに目はまん丸でまっくろなのでした。いっこう言葉が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。「あいづは外国人だな。」「学校さはいるのだな。」みんなはがやがやがやがや言いました・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・それに顔と云ったら、まるで熟した苹果のよう殊に眼はまん円でまっくろなのでした。一向語が通じないようなので一郎も全く困ってしまいました。「外国人だな。」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云いました。ところが五年生の嘉助がいきな・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ ばらばら、丸々熟した栗が今度は裸で頭の上から落ちかかって来る。一太は我を忘れ、首がかったるくなる迄上を向いて実を落した。 一太が再び部屋に戻ると、一太の母はやはり元の椅子に、ふてたような顔付をしてかけていた。一人であった。「――お・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫