・・・ 木村はさ程自信の強い男でもないが、その分からないのを、自分の頭の悪いせいだとは思わなかった。実は反対に記者のために頗る気の毒な、失敬な事を考えた。情調のある作品として挙げてある例を見て、一層失敬な事を考えた。 木村の蹙めた顔はすぐ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧き起つわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになお強いてとも言いかね、やがてやや傾いた月を見て、「夜も更けた。さらばおれはこれから看経しょうぞ。和女は思いのまにまに寝ねよ」 忍藻がうなずいて礼をしたので母もそれか・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・しかし、今はもうその方が何方にとっても得策であるに拘らず、強いてそれを打ち壊してまでも自分は自分の博愛を秋三に示さねばならないか? いやそれよりも、一体秋三とは何者か? そう思うと、彼は今一段自分の狡猾さを増して、自分から明らかに堂々と以後・・・ 横光利一 「南北」
・・・「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐いですわね。」と梶の妻が云うと、「一機も入れない」と栖方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合してみた彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 自分はこの書を読み始めた時に、巻頭においてまず強い激動を受けた。それは自分がアフリカのニグロについて何も知らなかったせいでもあるが、また同時に英米人の祖先たちがアフリカに対して何をなしたかを知らなかったせいでもある。自分はここにその個・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
出典:青空文庫