・・・勿論、往復とも徒歩なんですから、帰途によろよろ目が眩んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。午砲!――あの音で腰を抜いたんです。土を引掻いて起上がる始末で、人間もこうなると浅間しい。……行暮れた旅人が灯をたよるように、山賊の棲でも、い・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・という護法の牒を与えた。 けれども日蓮は悦ばず、正法を立せずして、弘教を頌揚するのは阿附である。暁しがたきは澆季の世である。このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ ラスキンをほうり出して、浅草紙をまた膝の上へ置いたまま、うとうとしていた私の耳へ午砲の音が響いて来た。私は飯を食うためにこのような空想を中止しなければならないのであった。 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・そうすれば、リベット一本仕上げた人を、あたかもツェペリン全部を一人で一夜に完成したように誤報する心配だけはなくなるであろう。 新聞の科学記事で往々世界的「大発明」として報ぜられるものの中には、専門家でないアマチュアの多年の苦心の結果と称・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・頂上の測候所へ行って案内を頼むと水兵が望遠鏡をわきの下へはさんで出て来ていろいろな器械や午砲の装薬まで見せてくれる、一シリングやったら握手をした。…… 夕飯後に甲板へ出て見るとまっ黒なホンコンの山にはふもとから頂上へかけていろいろの灯が・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・私は復古癖の人のように、徒らに言語の純粋性を主張して、強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとするものに同意することはできない。無論、古語というものは我々の言語の源であり、我民族の成立と共に、我国語の言語的精神もそこに形成せられ・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・今この語法に従い女子に向て所望すれば、起居挙動の高尚優美にして多芸なるは御殿女中の如く、談笑遊戯の気軽にして無邪気なるは小児の如く、常に物理の思想を離れず常に経済法律の要を忘れず、深く之を心に蔵めて随時に活用し、一挙一動一言一話活溌と共に野・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
余は昔から朝飯を喰わぬ事にきめて居る故病人ながらも腹がへって昼飯を待ちかねるのは毎日の事である。今日ははや午砲が鳴ったのにまだ飯が出来ぬ。枕もとには本も硯も何も出て居らぬ。新聞の一枚も残って居らぬ。仕方がないから蒲団に頬杖ついたままぼ・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・ ところが或る日のことであった。午砲の鳴る頃、春桃は、いつもの通り屑籠を背負ってとある市場へ来かかった。突然入口で「春桃、春桃!」と呼びとめた者があった。春桃は、向高でさえ、年に何度としか呼ばないそういう呼び方で、誰が自分を呼ぶかと、お・・・ 宮本百合子 「春桃」
・・・この寺は、建物も大観門から青蓮堂――観音廟を見たところ、同じ辺から護法堂へ行く窟門の眺めなど、趣き深い。永山氏の紹介で、現住三浦氏が各建物を案内し大方丈の戸にある沈南蘋の絵を見せて呉られた。護法堂の布袋、囲りに唐児が遊れて居る巨大な金色の布・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫