・・・古座谷はかつて最高学府に学び、上海にも遊び、筆硯を以って生活をしたこともある人物で、当時は土佐堀の某所でささやかな印刷業を営んでいた……。 まず無難な書き方だ。あとでどう辛辣に変ろうとも、また、そうでなくては「あばく」ことにもならないわ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・今のところ、せっせと書けば、食うに困るというほどでもないが、没落した家を再興し、産を成すようなタイプとは、私は正反対の人間だ。今は食うに困らなくても、やがて私もまた父と同じように身を亡ぼしてしまうかも知れない。そして、それは酒のためではない・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・彼によれば、それ自体最高の価値を持ったものは個性であり、個性は何ものの手段ともすべからざるものである。個性の発展は内生活の充実により、この過剰が義務であって、強制や、外的必然ではない。個性を発展せしめるためには狭隘な孤立的自己に閉じこもらず・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・恋愛の最高原理を運命におかずして、選択におくことは決して私の本意ではない。それは結婚の神聖と夫婦の結合の非功利性とを説明し得ない。私は「運命的な恋愛をせよ」と青年学生に最後にいわなければならないのだ。私自身は恋愛が選択を越えたものであること・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・百日の後彼は再び鎌倉に帰って松葉ヶ谷の道場を再興し、前にもまして烈々とした気魄をもって、小町の辻にあらわれては、幕府の政治を糺弾し、既成教団を折伏した。すでに時代と世相とに相応した機をつかんで立ってる日蓮の説法が、大衆の胸に痛切に響かないは・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 採鉱成績について、それが自分の成績にも関係するので、抜目のない課長は、市三が鉱車で押し出したそれで、既に、上鉱に掘りあたっていることを感づいていた。「糞ッ!」井村は思った。 課長のあとから阿見が、ペコ/\ついて来た。課長は、石・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・兵政の世界において秀吉が不世出の人であったと同様に、趣味の世界においては先ず以て最高位に立つべき不世出の人であった。足利以来の趣味はこの人によって水際立って進歩させられたのである。その脳力も眼力も腕力も尋常一様の人ではない。利休以外にも英俊・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 馬琴という人は、或る種類の人、ひと口に申しますれば通人がったり大人物がったりする人々には、余り賞されないのみならず、あるいはクサされる傾きさえある人でありますが、先ず日本の文学史上にはどうしても最高の地位を占めて居る人でございまして、・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・木沢殿、事すでにすべて成就も同様、故管領御家再興も眼に見えてござるぞ。」というと、人々皆勇み立ち悦ぶ。「損得にはそれがしも引廻されてござるかナ。」と自ら疑うように又自ら歎ずるように、木沢は室の一隅を睨んだ。 其後幾日・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・仮りに母がこの世に生きながらえていて、一回の震災の打撃に小竹の店の再興も覚束ないと聞いたなら、あの疑い深い人はまた何を言い出したかも知れない。三代と続く商家も少いとよく言われるように、今度の震災を待つまでもなく、旧いものの壊れる日が既に来て・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫