・・・実際またそうでもしなければ、残金二百円云々は空文に了るほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人もなかったのですから。 当時の三百円は大金だったでしょう。少くとも田舎大工の半之丞には大金だったのに違いありません。半・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 私は本多子爵が、今でこそ交際嫌いで通っているが、その頃は洋行帰りの才子として、官界のみならず民間にも、しばしば声名を謳われたと云う噂の端も聞いていた。だから今、この人気の少い陳列室で、硝子戸棚の中にある当時の版画に囲まれながら、こう云・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・しかしその女と僕との関係は、君たちが想像しているような、ありふれた才子の情事ではない。こう云ったばかりでは何の事だか、勿論君にはのみこめないだろう。いや、のみこめないばかりなら好いが、あるいは万事が嘘のような疑いを抱きたくなるかも知れない。・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・、パリサイの徒と祭司とに守られながら、十字架を背にした百姓の後について、よろめき、歩いて来た。肩には、紫の衣がかかっている。額には荊棘の冠がのっている。そうしてまた、手や足には、鞭の痕や切り創が、薔薇の花のように赤く残っている。が、眼だけは・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・大友雄吉も妻子と一しょに三畳の二階を借りている。松本法城も――松本法城は結婚以来少し楽に暮らしているかも知れない。しかしついこの間まではやはり焼鳥屋へ出入していた。……「Appearances are deceitful ですかね。」・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。 又 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・もっとも食足れば淫を思うのは、我々凡夫の慣いじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も天っ晴見上げた才子じゃ。が、魔王の浅間しさには、その乳糜を献じたものが、女人じゃと云う事を忘れて居った。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・昔から名高い美人や才子はたいてい地獄へ行っています。 小町 あなたは鬼です。羅刹です。わたしが死ねば少将も死にます。少将の胤の子供も死にます。三人ともみんな死んでしまいます。いえ、そればかりではありません。年とったわたしの父や母もきっと・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・書中に云っている所から推すと、彼は老儒の学にも造詣のある、一かどの才子だったらしい。 破提宇子の流布本は、華頂山文庫の蔵本を、明治戊辰の頃、杞憂道人鵜飼徹定の序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない訳ではない。現に予が・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
出典:青空文庫