・・・ 私もそれで気がついた。幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子が、倒れたり千切れたりしているのであった。「なにさ、おやおや――」 玄関の・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・引過のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくし・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・「橋の袂の柳の裏に、人住むとしも見えぬ庵室あるを、試みに敲けば、世を逃れたる隠士の居なり。幸いと冷たき人を担ぎ入るる。兜を脱げば眼さえ氷りて……」「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇してか」と父は話し半ばに我句を投げ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・が、幸いにして彼は腹這っていたから、それ以上に倒れることはなかった。 が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。土にはまるでそれが腐屍ででもあるように、臭気があるように感じた。彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかっ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ されば夫婦家に居るは必ずしも常に快楽のみに浴すべきものにあらず、苦楽相平均して幸いに余楽を楽しむものなれども、栄枯無常の人間世界に居れば、不幸にしてただ苦労にのみ苦しむこともあるべき約束なりと覚悟を定めて、さて一夫多妻、一婦多男は、果・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ところがカナリヤの夫婦は幸いに引取手があって碧梧桐のうちの床の間に置かれて稗よハコベよと内の人に大事がられて居る。残った二、三羽の小鳥は一番いのチャボにかえられて、真白なチャボは黄なカナリヤにかわって、彼の籠を占領して居る。しかるに残酷なる・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・お前さんも今のうちに、いい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。幸いぼくのすぐ頭の上に、すずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるから、いまのうちに、すこしおろして運んでおいたらどうだい。僕の頭は、まあ少し寒くなるけれど・・・ 宮沢賢治 「ツェねずみ」
・・・私達が若かった時――お事位の時には幸いあの精女の様な美くしい女は居なんだからその悲しみもうすいかなしみであったのじゃ。お事の若い心にはあの精女はあまり美くしすぎたの…………第二の精霊 ほんにその通りじゃ。美くしすぎたのじゃ世の中すべての・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪に油でも塗って切ればよいに」というのである。弥一右衛門は聞いて思いのほかのことに思・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ しかし、幸いなことには私は、作品の上で成功しようと思う野望は他人よりは少い。いやむしろ、そんなものは希としては持っているだけで、成功などということはあろうとは思えないのである。これは前にも書いたことで今始めて書くことではないが、作品の・・・ 横光利一 「作家の生活」
出典:青空文庫