・・・チョンボリ、ほんの真似だけにしといておくんなさいよ」「何だい卑怯なことを、お前も父の子じゃねえか」「だって、女の飲んだくれはあんまりドッとしないからね」「なあに、人はドッとしなくっても、俺はちょいとこう、目の縁を赤くして端唄でも・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・抗、半分はうるさいという気持から、いきなり振り向いて、「何か用ですの」 と、きめつけてやる気になった。三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気のために自嘲していた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られて、本来の面目を取り・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ちょうど、彼女たちが客と道で別れる時に使う「さいなアら」という言葉の「な」の音のひっぱり方一つで、彼女たちが客に持っている好感の程度もしくは嫌悪の程度のニュアンスが出せるのと同様である。 しかし、それとも考えようによっては、京都弁そのも・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。 大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔漢学の素読を授った室に通った。無論大学に居た時分、一夏帰省した時も訪うた事はある。 老漢学者と新法学士との談・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・コーヘンの『純粋意志の倫理学』と、ギヨーの『義務と制裁のない倫理学』とを比較するならば、その個性の対比は文芸作品の個性の差異の如くいちじるしい。所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・その上へ、陰気くさい雨がびしょ/\と降り注いでいた。 夜、一段ひくい納屋の向う側にある便所から帰りに、石段をあがりかけると、僕は、ふと嫂が、窓から顔を出して、苦るしげに、食ったものを吐こうとしている声をきいた。嫂はのどもとへ突き上げて来・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・その差異については、後で触れるが、また、花袋の「第二軍従征日記」を取って見ると、やはりそこには、戦争と攻撃を詩のようだとした讃美が見られるのである。 島崎藤村については、その渡仏中のことを除いては、いまだ、戦争を作品の中に取扱っているの・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・が与えた左様いう感じも必ずしも小さい働ではないと思います。文章発達史の上から云えば矢張り顧視せねばならぬ事実だと思います。 それはまあただ文章の上だけの話でありますが、其から「浮雲」其物が有した性質が当時に作用した事も中々少くはなかった・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・何かまた御用がありましたら、言付けてやって下さい」 こう言って、看護婦なぞの往ったり来たりする庭の向うの方から一人の男を連れて来た。新たに医学校を卒業したばかりかと思われるような若者であった。蜂谷はその初々しく含羞んだような若者をおげん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫