・・・ 大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・去年ちゃんと刈りこまなけりゃ、この萩はこうは咲くもんじゃない。」「しかしこの芝の上を見給え。こんなに壁土も落ちているだろう。これは君、震災の時に落ちたままになっているのに違いないよ。」 僕は実際震災のために取り返しのつかない打撃を受・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・「じゃ花が十咲くかね?」 五年の百合には五つ花が出来、十年の百合には十花が出来る、――彼等はいつか年上のものにそう云う事を教えられていた。「咲くさあ、十ぐらい!」 金三は厳かに云い切った。良平は内心たじろぎながら、云い訣のよ・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・――こう云う内にまた雨の中を斜に蒼白い電光が走って、雲を裂くように雷が鳴りましたから、お敏は思わず銀杏返しを膝の上へ伏せて、しばらくはじっと身動きもしませんでしたが、やがて全く色を失った顔を挙げると、夢現のような目なざしをうっとりと外の雨脚・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・胆を裂くような心咎めが突然クララを襲った。それは本統はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳から神の子基督の婢女として生き通そうと誓った、その神聖な誓言を忘れた報いに地獄に落ちるのに何の不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それに・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ しかしそんな優しい霊の動きは、壊された、あらゆる夢、殺された、あらゆる望の墓の上に咲く花である。 それだから、好い子、お前は釣をしておいで。 お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・ 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三「――あすこに鮹が居ます――」 とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、い・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 弥生の末から、ちっとずつの遅速はあっても、花は一時に咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿も桜も、あるいは満開に、あるいは初々しい花に、色香を装っている。石垣の草には、蕗の薹も萌えていよう。特に桃の花を真先に挙げたのは、むかし・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・婆さんの方でない、安達ヶ原の納戸でないから、はらごもりを割くのでない。松魚だ、鯛だ。烏賊でも構わぬ。生麦の鰺、佳品である。 魚友は意気な兄哥で、お来さんが少し思召しがあるほどの男だが、鳶のように魚の腹を握まねばならない。その腸を二升瓶に・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
出典:青空文庫