・・・出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この映画に現われて来る登場人物のうちで誰が一番幸福な人間かと思って見ると、天晴れ衆人の嘲笑と愚弄の的になりながら死ぬまで騎士の夢をすてなかったドンキホーテと、その夢を信じて案山子の殿様に忠誠を捧げ尽すことの出来たサンチョと、この二人にまさる・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・そうしてこの要素を自分の柔らかい頭に植えつけてくれた重兵衛さんに、やはり相当の感謝を捧げなければならないように思う。重兵衛さんは自分の心にファンタジーの翼を授け、自分の現実世界の可能性の牢獄を爆破してくれた人であった。 重兵衛さんの次男・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁えぬほどの熱情をもって文をやる・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響け・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 人を救うためにはが唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々壊れることになるのではないか。 だが、何でもかでも、私は遂々女から、十言許り聞くような運命になった。 四 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・今この家においては斯る盛大なる国教もその力を伸ぶること能わずして、戸外の公務なるものに逢えば忽ちその鋒を挫き、質素倹約も顧みるに遑あらず、飲酒不養生も論ずるに余地なく、一家内の安全は挙げてこれを公務に捧げ、遂には人間最大一の心得たる真実正直・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・それはわたくしが十六年前にあなたにいたしたような、はにかみながらのキスに籠もっているほどの物を、どの女もあなたに捧げることは出来まいと存じているのでございます。 わたくしはこんな夢を見て暮らしているうちに、ある日わたくしの夫婦生活の平和・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」 童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。 赤衣の童子が、そうして山・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・精女 まことに――我がままで相すみませんでございますけれ共お主様に捧げました体でございますから自分の用でひまをつぶす事は気がとがめますでございますから今日は御許しあそばして――第一の精霊 お主様に捧げた? おしい事じゃ、ほんにおしい・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
出典:青空文庫