・・・と鳶の頭清五郎がさしこの頭巾、半纒、手甲がけの火事装束で、町内を廻る第一番の雪見舞いにとやって来た。「へえッ、飛んでもねえ。狐がお屋敷のをとったんでげすって。御維新此方ア、物騒でげすよ。お稲荷様も御扶持放れで、油揚の臭一つかげねえもんだ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・喰いつかれでもするといけないから、お止しなさい。」「奥様、堂々たる男子が狐一匹。知れたものです。先生のお帰りまでに、きっと撲殺してお目にかけます。」 田崎は例の如く肩を怒らして力味返った。此の人は其後陸軍士官となり日清戦争の時、血気・・・ 永井荷風 「狐」
・・・、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止してしまった。然るにこの度は正宗君が『・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ すると友達の一人は、「君の態度はまるで西洋十八世紀の社会に反抗したルッソオのようだと言いたいが、然し柄にないことだからまア止した方がいいよ。君はやっぱり江戸文学の考証でもしている方が君らしくっていいよ。」と冷笑した。 兎角する中議・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。 それでは子供が背に負われて大人といっしょに歩くような真似をやめて、じみちに発展の順序を尽して進む事はどうして・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・が、止しました。けれども、まあ買っても宜いとは思いました。何故買っても宜いといいますと、相当に出来ているからです。内へ持って来て掛けるのは何故かというと、英吉利風の絵なら絵を、相当に描きこなしておって、部屋の装飾として突飛でない、丁度平凡で・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・正式にはドンギョあんであるが、ドンコあんと読まれてもさしつかえないことにしている。 ドンコはいくら下手でも、女子供でも、年よりでも釣れる。それはいくら釣りそこなっても、とにかく釣りあげられるまではエサに食いつくからだ。そこで、貪欲の貪を・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊下を急歩で行くのは、当楼の二枚目を張ッている吉里という娼妓である。「そんなことを言ッてなさッちゃア困りますよ。ちょいとおいでなすッて下さい。花魁、困りますよ」と、吉里の後から追い縋ッたのはお熊と・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「止しておくんなさいよ。一人者になッたと思ッて、あんまり酷待ないで下さいよ」「一人者だと」と、西宮はわざとらしく言う。「だッて、一人者じゃアありませんか」と、吉里は西宮を見て淋しく笑い、きッと平田を見つめた。見つめているうちに眼・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫