・・・人もあって、手の皮なんかもこんなに厚くなって、ひびだらけでささくれ立って、こんな手で女の柔い着物などにさわったら、手の皮がひっかかっていけないでしょう、このようなていたらくで、愛だの恋だのを囁く勇気は流石にありませんが、しかし、色気というの・・・ 太宰治 「嘘」
・・・ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七のハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、流石にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは、不潔に感じられ、おそろしくなって、嘉七は、そっと手・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・うめくような口調で、とぎれ、とぎれそういったので、私は、流石にいやな気がした。そのほかにも、私はほとんどそれが天命でもあるかのように、お慶をいびった。いまでも、多少はそうであるが、私には無智な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。 一昨年、・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・少年も、その輝くほどの外套を着ながら、流石に孤独寂寥の感に堪えかね、泣きべそかいてしまいました。お洒落ではあっても、心は弱い少年だったのです。とうとうその苦心の外套をも廃止して、中学時代からのボロボロのマントを、頭からすっぽりかぶって、喫茶・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・以下は、その原文であります。流石に、古今の名描写であります。背後の男の、貪婪な観察の眼をお忘れなさらぬようにして、ゆっくり読んでみて下さい。 女学生が最初に打った。自分の技倆に信用を置いて相談に乗ったのだと云う風で、落ち着いてゆっくり発・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・男爵は、けれども、その夜は、流石に自分の故郷のことなど思い出され、床の中で転輾した。 ――私は、やっぱり、私の育ちを誇っている。なんとか言いながらも、私は、私の家を自慢している。厳粛な家庭である。もし、いま、私の手許に全家族の記念写真で・・・ 太宰治 「花燭」
・・・今戸の渡と云う名ばかりは流石に床し。山谷堀に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・井戸は非常に深いそうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。 井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神・・・ 永井荷風 「狐」
・・・然しこれだけは流石の僕も忍びかねて、之を拒絶した。商人から饗応を受けることは昔より廉潔の士の好まざる所である。漂母が一飯の恵と雖一たび之を受ければ恩義を担うことになるからである。 僕は忍ばねばならぬことは之を忍び、避けねばならぬことは之・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・しかし流石にその智慧だけでは、ニイチェを嗅ぎつけることが出来ないのである。 ニイチェはその哲学詩人としての本領の外に、純粋の詩人としての抒情詩を書いて居る。しかし抒情詩人としてのニイチェには、僕としてあまり崇敬できない点がある。ゲー・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫