・・・同時にばたばたと飛び立った胸黒はちょうど真上に覆いかかった網の真唯中に衝突した、と思うともう網と一緒にばさりと刈田の上に落ちかかって、哀れな罪なき囚人はもはや絶体絶命の無効な努力で羽搏いているのである。飛ぶがごとく駈け寄った要太の一と捻りに・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・ もう一つのを開いて見ると、それはからだの下半が干すばって舎利になっていた。蚕にあるような病菌がやはりこの虫の世界にも入り込んで自然の制裁を行なっているのかと想像された。しかし簔虫の恐ろしい敵はまだほかにあった。 たくさんの袋を外か・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・そうして大勢の中の心あるものから纏頭を得て一くさり唄うのである。三味線の胴が復た膝にもどった。大勢は森とした。其一くさりが畢ると瞽女は絃を緩めで三味線を紺の袋へ納めた。そうして大きな荷物の側へ押しやった。大勢はまたがやがやと騒がしく成った。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と父君と母上に向って動議を提出する、父君と母上は一斉に余が顔を見る、余ここにおいてか少々尻こそばゆき状態に陥るのやむをえざるに至れり、さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を真平御免蒙ると握りつぶす訳には行かない、いやしくも文明・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 下女は障子をあけて、椽側へ人指しゆびを擦りつけながら、「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。「なるほど、始終降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」「おい・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・この一段にいたりては、政府の人においても、学者の仲間においても、いやしくも愛国の念あらん者なれば、私情をさりてこれを考え、心の底にこれを愉快なりと思う者はなかるべし。 なおこれよりも禍の大なるものあり。前すでにいえる如く、我が国内の人心・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・と吟じつつ行けば どつさりと山駕籠おろす野菊かな 石原に痩せて倒るゝ野菊かななどおのずから口に浮みてはや二子山鼻先に近し。谷に臨めるかたばかりの茶屋に腰掛くれば秋に枯れたる婆様の挨拶何となくものさびて面白く覚ゆ。見あぐれ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか。 さて・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・ それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊子、それ・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・ 房さりと濡れもせずに散った栗色の髪の毛と、賑やかな襞になって居る赤洋服の襟との間に、極々小さい顔はまるで白蝋色をして居る。唇はほほえみ、つぶった双眼の縁は、溶きもしない鮮やかな草色に近い青緑色で、くっきりの西洋絵具を塗ったように隈どら・・・ 宮本百合子 「或日」
出典:青空文庫