・・・ 私は駕籠の手に確と縋った。 草に巨人の足跡の如き、沓形の峯の平地へ出た。巒々相迫った、かすかな空は、清朗にして、明碧である。 山気の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は巌を削れる如く、棟広く柱黒き峯の茶屋に、木の根の・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈が点いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧されて、薄暗かったと思っておくれ。」「可厭あね。」「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えで・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・氷のような月が皎々と冴えながら、山気が霧に凝って包みます。巌石、がらがらの細谿川が、寒さに水涸れして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体の筋々へ沁・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 亭主はさぞ勝手で天窓から夜具をすっぽりであろうと、心に可笑しく思いまする、小宮山は山気膚に染み渡り、小用が達したくなりました。 折角可い心地で寐ているものを起しては気の毒だ。勇士は轡の音に目を覚ますとか、美人が衾の音に起きませぬよ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・冷たい山気が沁みて来た。魔女の跨った箒のように、自動車は私を高い空へ運んだ。いったいどこまでゆこうとするのだろう。峠の隧道を出るともう半島の南である。私の村へ帰るにも次の温泉へゆくにも三里の下り道である。そこへ来たとき、私はやっと自動車を止・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・すなわち一転すれば冒険心となり、再転すれば山気となるのである。現に彼の父は山気のために失敗し、彼の兄は冒険のために死んだ。けれども正作は西国立志編のお蔭で、この気象に訓練を加え、堅実なる有為の精神としたのである。 ともかく、彼の父は尋常・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・今になってみると、道太自身も姉に担がれたような結果になっているので、人のよすぎる姉に悪意はないにしても、姪の結婚に山気のあったことは争われなかった。「何しろあの連中のすることは雲にでも乗るようで、危なくてしようがない」「ふみ江ちゃん・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・しかし、よく見かけるのはいずれも山に対してあまり抒情的であり、しかもその抒情性がいかにも東洋風で、下界の人間の臭気から浄き山気へのがれるというような感情のすえどころから語られているのが、いつも何か物足らない心持をおこさせる。今日のひとが山を・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・やや湿っぽい山気、松林、そこへ龍を描こうとする着想は、常時生気あるものであったに違いない。然し平等院の眺めでさえ、今日では周囲に修正を加えて一旦頭へ入れてからでないと、心に躍り込んで来る美が尠い。「――京都の文化そのものがそうじゃない?・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・はるかに狼が凄味の遠吠えを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧が朦朧と立ち込めてほんの特許に木下闇から照射の影を惜しそうに泄らし、そして山気は山颪の合方となッて意地わるく人の肌を噛んでいる。さみしさ凄さはこればかり・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫