・・・「うざくらし、厭な――お兄さん……」 芝居がえりの過ぎたあと、土塀際の引込んだ軒下に、潜戸を細目に背にした門口に、月に青い袖、帯黒く、客を呼ぶのか、招くのか、人待顔に袖を合せて、肩つき寒く佇んだ、影のような婦がある。と、裏の小路から・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬してこれを遠ざくるの義にも非ず。遠ざかるは近づくの術なり、離るるは合するの方便なり。近くその例を示さん。他人の同居して不和なる者、別宅して相親しむべし。他人のみならず、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・、浮世の人もまた学者とともに語るを厭い、工業にも商売にもこれとともに事をともにせんとするものとては一人もなく、ただ学者と聞けば例の仙人なりと認めて、ただ外面にこれを尊敬するの風を装い、「敬してこれを遠ざくる」のみなれば、学者もまたこれに近づ・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・之を近づくれば固より相引き之を遠ざけても益相引かんとするは夫婦の間なれども、之を近づくれば常に相衝き之を遠ざくれば却て相引かんとするは舅姑と嫁との間なり。故に女子結婚の上は夫婦共に父母を離れて別に新家を設くるこそ至当なれども、結婚の法一様な・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」「いいえ、お前まだ見たことありません」「知ってるよ、僕この前とって来たもの」「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とっ・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
鍋はぐつぐつ煮える。 牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろ・・・ 森鴎外 「牛鍋」
出典:青空文庫