・・・兄たち、姉たちには、それが可笑しくてならない。けれども末弟は、大まじめである。家庭内のどんなささやかな紛争にでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深げに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・末弟ひとり、まさにその老博士の如くふるいたって、さらにがくがくの論をつづける。「このごろでは、解析学の始めに集合論を述べる習慣があります。これについても、不審があります。たとえば、絶対収斂の場合、昔は順序に無関係に和が定るという意味に用・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・これは、有名の詩句なんだそうだが、誰の詩句やら、浅学の私には、わからぬ。どうせ不埒な、悪文学者の創った詩句にちがいない。ジイドがそれを引用している。ジイドも相当に悪業の深い男のようである。いつまで経っても、なまぐさ坊主だ。ジイドは、その詩句・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・てれ隠しに、甚だ唐突な詩句を誦して、あははは、と自らを嘲った。「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」 魚容は言われるま・・・ 太宰治 「竹青」
・・・という先輩の詩句を口ずさみて酔泣きせし事あり。 八、他をも恨めども、自らを恨むこと我より甚しきはあるまじ。 九、起きてみつ寝てみつ胸中に恋慕の情絶える事無し。されども、すべて淡き空想に終るなり。およそ婦女子にもてざる事、わが右に出ず・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ヴェルレエヌ氏の施療病院に於ける最後の詩句、「医者をののしる歌。」を読み、思わず哄笑した五年まえのおのれを恥じる。厳粛の意味で、医師の瞳の奥をさぐれ! 私営脳病院のトリック。一、この病棟、患者十五名ほどの中、三分の二は、ふつうの・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・と、プウシキンの詩句、「あたしは、あした殺される。」とは、心のときめきに於いては同じようにも思われるだろうが、熟慮半日、確然と、黒白の如く分離し在るを知れり。宿題「チェック・チャックに就いて。」「策略ということについて。」「・・・ 太宰治 「もの思う葦」
渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・速記という法を用いてそのまゝに謄写しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語の語のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・この人たちから新築のホテルに関する噂を聞いた。この若く美しい夫人がスクリーンで見る某映画女優と区別の出来ないほどに実によく似ていた。 橋を渡る頃はまた雨になって河風に傘を取られそうであった。大きな丸太を針金で縛り合せた仮橋が生ま生ましく・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫