・・・――それで、警察に六十日居り、それから刑務所と廻ってくるうちに、俺は自分の四肢がスンなりと肥えてゆくのを感じた。俺の場合、それは運動不足からくるむくみでも何んでもなく、はじめて身体が当り前にかえって行くこの上もない健康からだった。 俺だ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・犬はグウグウと腹の方でうなっていたが、四肢が見ているうちに、力がこもってゆくのが分った。「そらッ!」と言った。 棒頭が土佐犬を離した。 犬は歯をむきだして、前足をのばすと、尻の方を高くあげて……源吉は身体をふるわしていたが、ハッ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・手長、獅子、牡丹なぞの講釈を聞かせて呉れたあの理学士の声はまだわたしの耳にある。今度わたしはその人の愛したものを自分でもすこしばかり植えて見て、どの草でも花咲くさかりの時を持たないものはないことを知った。おそらくどんな芸術家でも花の純粋を訳・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・「真実の獅子や手長と成ったら、どうしても後れますネ。そのうちに一つ塾の先生方を御呼び申したい……何がなくとも皆さんに集って頂いて、これで一杯進げられるようだと可いんですけれど……」 翌朝高瀬は塾へ出ようとして、例のように鉄道の踏切の・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。 四肢萎えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身のちからで、起き直り、木の幹に結びつけた・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた。 しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・汽車の行方は、志士にまかせよ。「待つ」という言葉が、いきなり特筆大書で、額に光った。何を待つやら。私は知らぬ。けれども、これは尊い言葉だ。唖の鴎は、沖をさまよい、そう思いつつ、けれども無言で、さまよいつづける。・・・ 太宰治 「鴎」
・・・浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私は形而下的にも四肢を充分にのばして、そうして、今のこの私の豊沃を、いったい、誰に教えてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮べて、なんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のそのうしろ姿を思えば、こんどは私が泣きたくなって、 ――だんだん・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・我は花にして花作り、我は傷にして刃、打つ掌にして打たるる頬、四肢にして拷問車、死刑囚にして死刑執行人。それでは、かなわぬ。むべなるかな、君を、作中人物的作家よと称して、扇のかげ、ひそかに苦笑をかわす宗匠作家このごろ更に数をましている有様。し・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫