・・・家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚い弟はあるし、妹はあるし、お前さんも知ッてる通り母君が死去のだから、どうしても平田が帰郷ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」「平田さんがお帰郷なさると、皆さん・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
去年の春、我が慶応義塾を開きしに、有志の輩、四方より集り、数月を出でずして、塾舎百余人の定員すでに満ちて、今年初夏のころよりは、通いに来学せんとする人までも、講堂の狭きゆえをもって断りおれり。よってこのたびはまた、社中申合・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・唯薪が山のように積んである上へ棺を据えると穏坊は四方から其薪へ火をつける。勿論夜の事であるから、炎々と燃え上った火の光りが真黒な杉の半面を照して空には星が一つ二つ輝いでおる。其処に居る人は附添人二人と穏坊が一人と許りである。附添の一人が穏坊・・・ 正岡子規 「死後」
・・・いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。「ごらん、そら、風・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 芸術ウダールニクは、広い同盟の四方へ出かけ、そこへ文化の光をふりまくと同時に、そこにはじまっている農村または新工場都市の全然これまでとはちがう新しい社会生活、生産労働の形態から発生する心理を、めいめいの芸術の新素材として吸収しようとし・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ ガラガラと戸をあけて金モールをつけた背の高い司法主任が入って来た。片手でテーブルの上に出してある巡邏表のケイ紙に印を押しながら、看守に小声で何か云っている。顔の寸法も靴の寸法も長い看守は首を下げたまま、それに答えている。「ハ。・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・当時傍聴席は、司法関係者と特高だけで占められていた。家族として傍聴する者さえ殆どなかった。たまに誰か来ると、特高は威脅的にその人にいろいろ訊いたし、私のように関係の知れ切っている者に対してさえ、今日こそ無事には帰さないぞという風の無言の脅迫・・・ 宮本百合子 「信義について」
・・・「弁護士の本質は自由であり、権力や物質にとらわれてはならない。あに権力のみにかぎらない。世評などに対しても必ず左右されてはならない。」「司法権の最も大切な、重大な問題としては検事の不法取調べという問題がおこっている。こういうことを果して看過・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・私共には、前司法大臣が破廉恥罪で下獄すると報道されている同日の新聞に、前鉄相が五万円の収賄で召喚されることを読む方が、恥といえば何か恥に近いものがあると感じられるのである。 外国人の男に対して、日本の女が概して無防禦であり、惚れっぽいと・・・ 宮本百合子 「日本の秋色」
・・・ 主権在民ということは、最少限に考えて、人民自身が、行政、司法、立法の全権を有すという意味であろうし、議会の権能も、当然人民の内から選ばれた代表――議員によって掌握されなければならないものだろう。 この草案の発表された三月七日の新聞・・・ 宮本百合子 「矛盾とその害毒」
出典:青空文庫