・・・近代の知性は冷やかに死後の再会というようなことを否定するであろうが、この世界をこのアクチュアルな世界すなわち娑婆世界のみに限るのは絶対の根拠はなく、それがどのような仕組みに構成されているかということは恐らく人知の意表に出るようなことがありは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。 これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・また右手の小高き岡に上って見下ろせば木の間につゞく車馬老若の絡繹たる、秋なれども人の顔の淋しそうなるはなし。杉の大木の下に床几を積み上げたるに落葉やゝ積りて鳥の糞の白き下には小笹生い茂りて土すべりがちなるなど雑鬧の中に幽趣なるはこの公園の特・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・を模したのなどは美しかったが、シャバの「水浴の少女」をそっくりそのままベッドの前に立たせ、変なおやじが箒で腰をなぐろうとしている光景は甚だ珍妙ないかがわしいものであった。大切りにナポレオンがその将士を招集して勲章を授ける式場の光景はさすがに・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・囿方数里。車馬ノ者モ往キ、杖履ノ者モ往ク。民偕ニ之ヲ楽ンデ其大ナルヲ知ラズ。京中都人士ガ行楽ノ地、実ニ此ヲ以テ最第一トナス。」 上野の桜は都下の桜花の中最早く花をつけるものだと言われている。飛鳥山隅田堤御殿山等の桜はいずれも上野につぐも・・・ 永井荷風 「上野」
・・・わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆に居残っている事を心から祈っている。 大道具の頭の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町の方へ抜け・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・流を挟む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々と烟る。娑婆と冥府の界に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色である。画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。 舟はカメロットの水門に横付けに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・二十六年も娑婆の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。――何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立って・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。彼らは涙の浪に揺られてこの洞窟のごとく薄暗きアーチの下まで漕ぎつけられる。口を開けて鰯・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫