・・・そしてしゃ嗄れた、胸につまったような声で、何事かしきりに云っているのであった。顔いっぱいに暑い日が当って汚れた額の創のまわりには玉のような汗が湧いていた。 よく聞いてみるとある会社の職工であったが機械に喰い込まれて怪我をしたというのであ・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・オリブ色の吾妻コオトの袂のふりから二枚重の紅裏を揃わせ、片手に進物の菓子折ででもあるらしい絞りの福紗包を持ち、出口に近い釣革へつかまると、その下の腰掛から、「あら、よし子さんじゃいらッしゃいませんか。」と同じ年頃、同じような風俗の同じよ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・と、吉里は障子を開けて室内に入ッて、後をぴッしゃり手荒く閉めた。「どうしたの。また疳癪を発しておいでだね」 次の間の長火鉢で燗をしながら吉里へ声をかけたのは、小万と呼び当楼のお職女郎。娼妓じみないでどこにか品格もあり、吉里には二三歳・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
上 仙台の師団に居らしッた西田若子さんの御兄いさんが、今度戦地へ行らッしゃるので、新宿の停車場を御通過りなさるから、私も若子さんと御同伴に御見送に行って見ました。 寒い寒い朝、耳朶が千断れそうで、靴の裏が路上に凍着くのでした・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・あるからそれも出来ん。」「ヤア目出とう。お前いつお帰りたか。」「今帰ったばかりサ。道後の三階というのはこれかナ。あしゃアこの辺に隠居処を建てようと思うのじゃが、何処かええ処はあるまいか。」「爰処はどうかナ。」「これではちっと地面が狭いヨ・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ 男たちはよろこんで手をたたき、さっきから顔色を変えて、しんとして居た女やこどもらは、にわかにはしゃぎだして、子供らはうれしまぎれに喧嘩をしたり、女たちはその子をぽかぽか撲ったりしました。 その日、晩方までには、もう萱をかぶせた小さ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・「雁の童子と仰っしゃるのは。」老人は食器をしまい、屈んで泉の水をすくい、きれいに口をそそいでからまた云いました。「雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのようなのです。この地方にこのごろ降りられました天童子だというので・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・わっしゃ馬から聞きやした。(おい、情けないこと云うじゃないか、おいらはひどく餓えてんだ。ちっとオートでも振る舞ところがタスケの馬も馬でさあ、面白がってオペラのようにふしをつけてだなんてやったもんです。バキチもそこはのんきです。やっぱりふしを・・・ 宮沢賢治 「バキチの仕事」
・・・専門学校では文科系統の学徒が容しゃなく前線へ送り出され、理科系統のものだけが戦力準備者としてのこされた。何年間も否定されつづけて来た若き生の、肯定と回復の一つの気の如く、不安なつつみどころのない表現として、自然と自意識の問題を語るとき大多数・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・一私人として立てば、やはり我身をもみくしゃにされ、妻を顧みて「おい大丈夫か」といい、子の名を呼んで「乗れたか?」と叫びもするだろう。人間の姿がそこにある。今日の、日本の人民の一員たる現実の姿が、よかれあしかれ、そこに現出しているのである。・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
出典:青空文庫