・・・風呂でいくら洗っても、その変な臭気は皮膚から抜けきらなかった。 もとは、小屋も小さく、頭数も少なくって、母が一人で世話をしていたものだった。親爺は主に畠へ行っていた。健二は、三里ほど向うの醤油屋街へ働きに出ていた。だが、小作料のことから・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・そのあたりからは、植物性の物質が腐敗して発する吐き出したいような臭気が立ち上ってきた。最初、彼は、堪えられなかったものだが、日を経るうちに、馴れてきて、さほどに感じなくなった。それに従って、彼の身体には、知らず知らず醤油の臭いがしみこんでき・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・焼味噌の塩味香気と合したその辛味臭気は酒を下すにちょっとおもしろいおかしみがあった。 真鍮刀は土耳古帽氏にわたされた。一同はまたぶらぶらと笑語しながら堤上や堤下を歩いた。ふと土耳古帽氏は堤下の田の畔へ立寄って何か採った。皆々はそれを受け・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 女はたちまち帰り来りしが、前掛の下より現われて膳に上せし小鉢には蜜漬の辣薑少し盛られて、その臭気烈しく立ち渡れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。「いいかエ。「素敵だッ、・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・新涼の秋気はすでに二階の部屋にも満ちて来た。この一夏の間、わたしは例年の三分の一に当るほども自分の仕事をなし得ず、せめて煩わなかっただけでもありがたいと思えと人に言われて、僅かに慰めるほどの日を送って来たが、花はその間に二日休んだだけで、垣・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・まだ一方には鉋屑の臭気などがしていた。湯場は新開の畠に続いて、硝子窓の外に葡萄棚の釣ったのが見えた。青黒く透明な鉱泉からは薄い湯気が立っていた。先生は自然と出て来る楽しい溜息を制えきれないという風に、心地の好い沸かし湯の中へ身を浸しながら、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・日毎夜の大混乱の中でも、私はやはり休むひまもなくあの人の手から、この人の手と、まるでリレー競走のバトンみたいに目まぐるしく渡り歩き、おかげでこのような皺くちゃの姿になったばかりでなく、いろいろなものの臭気がからだに附いて、もう、恥ずかしくて・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・その世界から発散する臭気に窒息しかけたのである。私は、そのようなむだな試みを幾度となく繰り返し、その都度、失敗した。私は絶望した。私は大作家になる素質を持っていないのだと思った。ああ、しかし、そんな内気な臆病者こそ、恐ろしい犯罪者になれるの・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬嘶て白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の孤客の如く、心は渺として空しく河上を徘徊するという間の抜けた有様であった。「いつまでもこ・・・ 太宰治 「竹青」
・・・急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしく撲つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫