・・・ フレンチが正気附いたのは、誰やらが袖を引っ張ってくれたからであった。万事済んでしまっている。死刑に処せられたものの刑の執行を見届けたという書きものに署名をさせられるのであった。 茫然としたままで、フレンチは署名をした。どうも思慮を・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・刈り取られた黍畑や赤はげの小山を超えて、およそ二千メートル後方の仮繃帯場へついた時は、ほッと一息したまま、また正気を失てしもた。そこからまた一千メートル程のとこに第○師団第二野戦病院があって、そこへ転送され、二十四日には長嶺子定立病院にあっ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・慾も得もない書放しで、微塵も匠気がないのが好事の雅客に喜ばれて、浅草絵の名は忽ち好事家間に喧伝された。が、素人眼には下手で小汚なかったから、自然粗末に扱われて今日残ってるものは極めて稀である。椿岳歿後、下岡蓮杖が浅草絵の名を継いで泥画を描い・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
その時、私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。 十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと私にとっては生れつきの気性・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・この男はどこまで正気なのか、わからなかった。 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・近くの古池からはなにかいやな沼気が立ちのぼるかと思われた。一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡り、板塀は崩れ、青いペンキが剥げちょろけになったその建物のなかで、人びとは古障子のようにひっそりと暮していた。そして佐伯はいわばその古障子の・・・ 織田作之助 「道」
・・・ どちらも正気の沙汰ではないと、礼子はむしろ呆れかえった。 夏の短夜は、やがて明け初めて来た。が、寿子は依然として弾いている。蚊帳の中の庄之助は鉛のような沈黙を守っている。余りだまっているので、寿子は、父はもう眠ってしまったのかも知・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・顔も体格に相応して大きな角張った顔で、鬚が頬骨の外へ出てる程長く跳ねて、頬鬚の無い鍾馗そのまゝの厳めしい顔をしていた。処が彼が瞥と何気なしに其巡査の顔を見ると、巡査が真直ぐに彼の顔に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやって・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そこへ沼の底から湧いて来る沼気のようなやつがいる。いやな妄想がそれだ。肉親に不吉がありそうな、友達に裏切られているような妄想が不意に頭を擡げる。 ちょうどその時分は火事の多い時節であった。習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・喧嘩しながら居眠るほど、酔っていた男を正気の相手が刃物で、而も多人数で切ったのですから、ぼくの運がわるく、而も丹毒で苦しみ、病院費の為、……おやじの残したいまは只一軒のうちを高利貸に抵当にして母は、兄と争い乍ら金を送ってくれました。会社は病・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫