・・・この辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だと云うような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・と、どうやら無事に言い納めた時に、三十歳を少し越えたくらいの美しい人があらわれ、しとやかに一礼して、「はじめてお目にかかります。正子の姉でございます。」「は、幾久しゅうお願い申上げます。」と私は少しまごついてお辞儀した。つづいて、ま・・・ 太宰治 「佳日」
・・・そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだ・・・ 太宰治 「五所川原」
・・・ちょうど円貨の切り換えがあり、こんな片田舎の三等郵便局でも、いやいや、小さい郵便局ほど人手不足でかえって、てんてこ舞いのいそがしさだったようで、あの頃は私たちは毎日早朝から預金の申告受附けだの、旧円の証紙張りだの、へとへとになっても休む事が・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・昨日の花、この為めに凋落し尽すという恨はあるが、何となく思を取集めて感じが深い。硝子窓の外は風雨吹暴れて、山吹の花の徒らに濡れたるなど、歌にでもしたいと思う。 躑躅は晩春の花というよりも初夏の花である。赤いのも白いのも好い。ある寺の裏庭・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・それでもう一ぺん同じように警報を発しておいて、すきを見て燭火を引っくりかえして火事を起こしたはいいが自分がそのために焼死しそうになるといったような場面もある。また大地震で家がつぶれ、道路が裂けて水道が噴出したり、切断した電線が盛んにショート・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・欠けた硝子片を寄せたものは破れない硝子板にはならないのである。 老子は虚無を説くから危険思想だとこわがる人があるそうである。しかし自分が電車で巡り合った老子の虚無は円満具足を意味する虚無であって、空っぽの虚無とは全く別物であった。老子の・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・ これで思い出したのは、関東大震災のすぐあとで小田原の被害を見て歩いたとき、とある海岸の小祠で、珍しく倒れないでちゃんとして直立している一対の石燈籠を発見して、どうも不思議だと思ってよく調べてみたら、台石から火袋を貫いて笠石まで達する鉄・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・そして道ばたにマドンナを祭るらしい小祠はなんとなく地蔵様や馬頭観世音のような、しかしもう少し人間くさい優しみのある趣のものであった。西洋でもこんなものがあるかと思ってたのもしいような気もした。山腹から谷を見おろすと、緑の野にまっ白な道路が真・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ まさにこの稿を書きおわらんとしているきょう四月五日の夕刊を見るとこの日午前十時十六分函館西部から発火して七十一戸二十九棟を焼き、その際消防手一名焼死数名負傷、罹災者四百名中先日の大火で焼け出され避難中の再罹災者七十名であると報ぜられて・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
出典:青空文庫