・・・まだ暮れたばかりの初夏の谷中の風は上野つづきだけに涼しく心よかった。ごく懇意でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚の中村の家を訪い、その細君に立話しをして、中村に吾家へ遊びに来てもらうことを請うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・教室の上にある二階の角が先生のデスクや洋風の書架の置並べてあるところだ。亜米利加に居た頃の楽しい時代でも思出したように、先生はその書架を背にして自分でも腰掛け、高瀬にも腰掛けさせた。「好い書斎ですネ」 と高瀬は言って見て、窓の方へ行・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 兄がなくなったのは、私が大学へはいったとしの初夏でありましたが、そのとしのお正月には、応接室の床の間に自筆の掛軸を飾りました。半折に、「この春は、仏心なども出で、酒もあり、肴もあるをよろこばぬなり。」と書かれていて、訪問客は、みんな大・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与えるような服装だったら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまでは、よかったのですが、ふと少年は妙なことを考えました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて、三十銭かいくらで買いました。文句も北斗七星とばかりでなんの意味もないものですから気にいりました。私はげてものが好きなのですよ。」 僕は青扇をよっぽど傲慢な男にちがいないと思った。傲慢な男ほど、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ 昭和十一年の初夏に、私のはじめての創作集が出版せられて、友人たちは私のためにその祝賀会を、上野の精養軒でひらいてくれた。偶然その三日前に中畑さんは東京へ出て来て、私のところへも立ち寄ってくれた。私は中畑さんに着物をねだった。最上等の麻・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・けれども伊村君からそう言われて、それから一箇月間くらいは、やっぱり何だか気になって、私はサタンに就いての諸家の説を、いろいろ調べてみた。私が決してサタンでないという反証をはっきり掴んで置きたかったのである。 サタンは普通、悪魔と訳されて・・・ 太宰治 「誰」
・・・の手さぐりにて自記した日記は、それらの事情を、あますところ無く我らに教える。勾当、病歿せしは明治十五年、九月八日。年齢、七十一歳也。 以上は、私が人名辞典やら、「葛原勾当日記」の諸家の序やら跋やら、または編者の筆になるところの年譜、逸話・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・ 躑躅は晩春の花というよりも初夏の花である。赤いのも白いのも好い。ある寺の裏庭に、大きな白躑躅があって、それが為めに暗い室が明るく感じられたのを思い出す。 僕の大きくなった士族町からは昔の城跡が近かった。不明門という処があった。昔、・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・またことしの初夏には松坂屋の展覧会で昔の手織り縞のコレクションを見て同じようななつかしさを感じた。もしできれば次に出版するはずの随筆集の表紙にこの木綿を使いたいと思って店員に相談してみたが、古い物をありだけ諸方から拾い集めたのだから、同じ品・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫