・・・「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声で、チルナウエルが叫んだ。「その日数だけ休暇が貰えるかね。半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・リッシュに這入ったとき、大きな帽子を被った別品さんが、おれの事を「あなたロシアの侯爵でしょう」と云って、「あなたにお目に掛かった記念にしますから、二十マルクを一つ下さいな」と云ったっけ。 ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 表装でもしておくといいと思いながらそのままに、色々な古手紙と一しょに突込んであったのを、近頃見せたい人があって捜し出して書斎の机の抽斗に入れてある。せめて状袋にでも入れて「正岡子規自筆根岸地図」とでも誌しておかないと自分が死んだあとで・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・ つれの、桃色の腰巻をたらして、裾ばしょりしている小娘の方が、ときどきふりかえって三吉の方をにらむ。くろい、あごのしゃくれた小さい顔は、あらわに敵意をみせていた。女は一度もふりむかないけれど、うしろを意識している気ぶりは、うしろ姿のどこ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣に片足をそと崩せば、小豆皮の座布団を白き甲が滑り落ちて、なまめかしからぬほどは艶なる居ずまいとなる。「美しき多くの人の、美しき多くの夢を…・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ なぜわたくしは今日あなたに出し抜けに手紙を上げようと決心いたしたのでしょう。人の心の事がなんでもお分かりになるあなたに伺ってみたら、それが分かるかも知れません。わたくしこれまで手紙が上げたく思いましたのは、幾度だか知れません。それでい・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・己と身の周囲の物とが一しょに織り交ぜられた事は無い。周囲の物に心を委ねて我を忘れた事は無い。果ては人と人とが物を受け取ったり、物を遣ったりしているのに、己はそれを余所に見て、唖や聾のような心でいたのだ。己はついぞ可哀らしい唇から誠の生命の酒・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 一本のごつごつした柏の木が、清作の通るとき、うすくらがりに、いきなり自分の脚をつき出して、つまずかせようとしましたが清作は、「よっとしょ。」と云いながらそれをはね越えました。 画かきは、「どうかしたかい。」といってちょっと・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・「寒さに向って、体気をつけなんしょよ」と或る者は真綿をくれた。元村長をした人の後家のところでは一晩泊って、綿入れの着物と毛糸で編んだ頭巾とを貰った。古びた信玄袋を振って、出かけてゆく姿を、仙二は嫌悪と哀みと半ばした気持で見た。「・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
出典:青空文庫