・・・ ○ 千葉街道の道端に茂っている八幡不知の藪の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。 両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あんな義理知らずはありゃアしないよ」 名山がふと廊下の足音を見返ると、吉里が今便所から出て湯殿の前を通るところであッた。しッと言ッた名山の声に、一同廊下を見返り、吉里の姿を見ると、さすがに気の毒になッて、顔を見合わせて言葉を発する者もな・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・中津の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居てかえって自からその動くところの趣に心付かず、不知不識以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊かその望観の・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・のは、本当の喜や悲でなくって、謂わば未来の人生の影を取り越して写したものか、さもなくば本当に味のある万有のうつろな図のようなものであって、己はつまり影と相撲を取っていたので、己の慾という慾は何の味をも知らずに夢の中に草臥れてしまったのだ。振・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・蕉の俳句を註釈して勿体つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾珠を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・わたしたちの世間知らずのために、種々さまざまのあることないことを外国についてきかされっぱなしで半信半疑でいることは、もう今では、恐ろしいことである。戦争挑発者にとって最もほくそ笑まれる状態は、ある国の人民の間に、はっきりとした根拠はないけれ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第八巻)」
・・・ 某は当時退隠相願い、隈本を引払い、当地へ罷越候えども、六丸殿の御事心に懸かり、せめては御元服遊ばされ候まで、よそながら御安泰を祈念致したく、不識不知あまたの幾月を相過し候。 然るところ去承応二年六丸殿は未だ十一歳におわしながら、越・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・「『題知らず……躬恒……貫之……つかわしける……女のもとへ……天津かりがね……』おおわれ知らず読んだか。それにつけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までははや七日じゃに、七日目にこう胸がさわぐとは……打ち出せば愚痴めいた・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・誰がなんの夢を見るのか、われ知らずうめく声が聞える。外では鐸の音がの鳴くように聞える。 フィンクはなんとか返事をしなくてはならないような心持がした。「わたしは病気ではないのです。弟が病気で、ニッツアに行っています所が、そいつがひどく・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫