・・・ 三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひっくりかえり、しばらく、うごこうともしなかった。鼻孔からは、鼻血がどくどく流・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・於いて佐々木道誉等、大小の侯伯を集めて茶の会を開きし事は伝記にも見えたる所なれども、これらは奇物名品をつらね、珍味佳肴を供し、華美相競うていたずらに奢侈の風を誇りしに過ぎざるていたらくなれば、未だ以て真誠の茶道を解するものとは称し難く、降っ・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなく・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ところがある日その神聖な規律を根底から破棄するような椿事の起こったのを偶然な機会で目撃することができた。いつものように夫婦仲よく並んで泳いでいたひとつがいの雄鳥のほうが、実にはなはだ突然にけたたましい羽音を立てて水面を走り出したと思うとやが・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・というのは、昔からの国の習俗で、この日の神聖な早乙女に近よってからかったりする者は彼女達の包囲を受けて頭から着物から泥を塗られ浴びせられても決して苦情はいわれないことになっていたのである。 そういう恐ろしい刑罰の危険を冒して彼女らを「テ・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・十年前に出現した新星の光が今ようやく地球に届いたようなものである。 それほどに科学者の世界は世間を離れている。しかしそのおかげで学者は心静かに落着いて各自の研究に没頭していられるのかもしれない。 近頃かの地でボーアに会って帰って来た・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・それがどういう感情であるかと問われると私にも分らないが、しかし例えばある神性と同時にある狂暴性を具えた半神半獣的のビーイングの歓喜の表現だと思って見ると、そう思えない事はない。 私は遠い神代のわが大八洲の国々の山や森が、こういう神秘的な・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 四 新星 毎年夏になってそろそろ夕方の風が恋しい頃になると、物置にしまってある竹製の涼み台が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の単調な一年中の生活に一つの著しい区切りを付ける重要な日になっている。もう・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 古来邦画家は先人の画風を追従するにとどまって新機軸を出す人は誠に寥々たる晨星のごときものがあった。これらは皆知って疑わぬ人であったとも言われよう。疑って考えかつ自然について直接の師を求めた者にいたって始めて一新天地を開拓しているの観が・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・老衰して黒っぽくなりその上に煤煙によごれた古葉のかたまり合った樹冠の中から、浅緑色の新生の灯が点々としてともっているのである。よく見ると、場所によってこの新芽のよく出そろったところもあり、また別の町ではあまり目立たないところもある。さらにま・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫