・・・ ちっとも流行しないが、自分では、相当のもののつもりで出処進退、つつしみつつしみ言動している。大事のまえの小事には、戒心の要がある。つまらぬ事で蹉跌してはならぬ。常住坐臥に不愉快なことがあったとしても、腹をさすって、笑っていなければなら・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。こ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」「不思議な、人を牽き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とで・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったか・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・という意味での芸術としての文学の真諦に触れるものは、むしろ前者よりも後者のほうに多いということになりはしないかと思われる。そうして後者のほうは、同時にまた科学に接近する、というよりもむしろ、科学の目ざすと同一の目的に向かって他の道路をたどる・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・この給仕車の進退を食卓の片隅でやっていた主人役は、その学校の教授某先生であったという話である。 磁石に感ぜぬ鉄の合金 一に一を加えて二になるのは当り前だが、白い物と白い物を合せれば必ずしも白くなると限らぬ。合金など・・・ 寺田寅彦 「話の種」
・・・一日汗水たらして働いた後にのみ浴後の涼味の真諦が味わわれ、義理人情で苦しんだ人にのみ自由の涼風が訪れるのである。 涼味の話がつい暑苦しくなった。 きょう、偶然ことし流行の染織品の展覧会というのをのぞいた。近代の夏の衣装の染織には、ど・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。 二 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するた・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して苦んだ。彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のこと・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫