・・・旦那様はお帰りになりませんし、――何なら爺やでも警察へ、そう申しにやって見ましょうか。」「まあ、婆やは臆病ね。あの人なんぞ何人来たって、私はちっとも怖くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」 老女は不審そうに瞬きをし・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「この爺め! きょうもまたわたしの財布から一杯やる金を盗んでいったな!」 十分ばかりたった後、僕らは実際逃げ出さないばかりに長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を下りていきました。「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずです・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・凄じい古千屋の叫び声はもちろん、彼等の彼女を引据えようとする騒ぎも一かたならないのに違いなかった。 井伊の陣屋の騒がしいことはおのずから徳川家康の耳にもはいらない訣には行かなかった。のみならず直孝は家康に謁し、古千屋に直之の悪霊の乗り移・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・その祈祷の声と共に、彼の頭上の天には、一団の油雲が湧き出でて、ほどなく凄じい大雷雨が、沛然として刑場へ降り注いだ。再び天が晴れた時、磔柱の上のじゅりあの・吉助は、すでに息が絶えていた。が、竹矢来の外にいた人々は、今でも彼の祈祷の声が、空中に・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・白は凄じい唸り声を洩らすと、きりりとまた振り返りました。「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」 この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。「きゃあん。きゃあん。臆病ものになるな! き・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・ 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そこにはうす暗い空と水との間に、濡れた黄土の色をした蘆が、白楊が、無花果が、自然それ自身を見るような凄じい勢いで生きている。………「傑作です。」 私は記者の顔をまともに見つめながら、昂然としてこう繰返した。・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・それはおそろしいしらがの爺で、あなたのようなやさしいきれいな鳥は手もなく取って殺します。早く暖かい国に帰ってください、それでないと私はなお悲しい思いをしますから。私は今年はこのままで黄色く枯れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはま・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・飢じい時にそんな話をする奴が……ああ俺はもうだめだ。三日食わないんだ、三日。瀬古 沢本は生蕃だけに芸術家として想像力に乏しいよ。僕が今ここにおはぎを出すから見てろ――じゃない聞いてろ。ともちゃんが家を出ようとすると、お母さんが「ともや・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育に人・・・ 有島武郎 「私の父と母」
出典:青空文庫