・・・然し全治までには長い時間を要すると医師は診断した。告訴を受ければ太十は監獄署の門をくぐらねばならぬと思って居る。彼はどれ程警察署や監獄署に恐怖の念を懐いたろう。彼はそれからげっそり窶れて唯とぼとぼとした。事件は内済にするには彼の負担としては・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・婆さんは例の朗読調をもって「千八百四十四年十月十二日有名なる詩人テニソンが初めてカーライルを訪問した時彼ら両人はこの竈の前に対坐して互に煙草を燻らすのみにて二時間の間一言も交えなかったのであります」という。天上に在って音響を厭いたる彼は地下・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・対象認識の立場から出立する人は、自己そのものの存在ということも、時間空間の形式に当嵌めて対象的に考える。心理的自己としては、我々の自己も爾考えることができる。しかしそれは考えられた自己であって、考える自己ではない。何人の自己でもあり得る自己・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・それで彼らのヴィジョンが破れ、悠々たる無限の時間が、非東洋的な現実意識で、俗悪にも不調和に破れてしまった。支那人は馳け廻った。鉄砲や、青竜刀や、朱の総のついた長い槍やが、重吉の周囲を取り囲んだ。「やい。チャンチャン坊主奴!」 重吉は・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・そして手真似で、もう時間だぜ、と云った。 私は慌てた。男が私の話を聞くことの出来る距離へ近づいたら、もう私は彼女の運命に少しでも役に立つような働が出来なくなるであろう。「僕は君の頼みはどんなことでも為よう。君の今一番して欲しいことは・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 眼千両と言われた眼は眼蓋が腫れて赤くなり、紅粉はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。「どうだね、一杯」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・其飲食遊戯の時間は男子が内を外にするの時間にして、即ち醜体百戯、芸妓と共に歌舞伎をも見物し小歌浄瑠璃をも聴き、酔余或は花を弄ぶなど淫れに淫れながら、内の婦人は必ず女大学の範囲中に蟄伏して独り静に留守を守るならんと、敢て自から安心してます/\・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ どうぞあなたの貴重な時間の十五分間をわたくしに御割愛なさって下さいまし。ちょうど夫は取引用で旅行いたしまして、五六日たたなくては帰りません。明晩までに、差出人なしに「承知」と云う電信をお発し下さいましたら、わたくしはすぐにパリイへ立つ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す事はない、という、こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ、そこで急に我家・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・五稜郭、えぞ富士、白樺、小樽、札幌の大学、麦酒会社、博物館、デンマーク人の農場、苫小牧、白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が踊る。五時間目には菊池先生がうちへ宛てた手紙を渡して、またいろいろ話された。武田先生と菊池先生がついて行・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫