・・・英語では何というかと思って和英辞書を開けてみたが虫の一種とあるばかりで要領を得なかった。いったいこの虫が西洋にも居るだろうか。もし居れば、こんな面白い虫の事だから、ずいぶん色々な人が色々な事をこれについて書いたのがありそうなものだと考えたり・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 水戸の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、維新の革命があって程もなく、新しい時代に乗じた私の父は空屋敷三軒ほどの地所を一まとめに買い占め、古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。私の生れた時には其の新しい家・・・ 永井荷風 「狐」
・・・人名辞書に二行や三行かかれる事は伝わるのではない。自分が伝わるのではない。活版だけが伝わるのであります。自己が真の意味において一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事する事の閑事業でない事を自覚するのであります。始めて自己が一個・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 魚の辞典を引いてみると、ドンコはドンコ属という独立した一科になっている。辞書や伝承によって、鈍甲、胴甲、貪魚、鈍魚、などという字があててあるが、どれがほんとうなのか、私は知らない。しかし、鈍魚という字が面白く、また、ドンコの性格をよく・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・理学初歩 価一分一朱義塾読本文典 価一分和英辞書 価三両二歩地理書 ┌一部に付窮理書 ┤弐両より歴史 └四両まで 右にて初学より一年半の間は不自由なし。このほかに・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・元来墓地には制限を置かねばならぬというのが我輩の持論だが、今日のように人口が繁殖して来る際に墓地の如き不生産的地所が殖えるというのは厄介極まる話だ。何も墓地を広くしないからッて死者に対する礼を欠くという訳はない。華族が一人死ぬると長屋の十軒・・・ 正岡子規 「墓」
・・・けれども役所のなかとちがって競馬場には物知りの年とった書記も居なければ、そんなことを書いた辞書もそこらにありませんでしたから、わたくしは何ということなしに輪道を半分通って、それからこの前山羊が村の人に連れられて来た路をそのまま野原の方へある・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・『辞苑』辞書としていいであろうと思うがいかがでしょうか。すぐ又書きます。林町の皆からもよろしく。 三月二十五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より〕 第十信 三月二十日 水曜日 今この手紙の中には太郎の泣き声が混って居り・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ おまけにね、どてらの心配もあるのよ。辞書をひくなんというやさしいことではなくて田中さんという浅草の女の人がいつになったら我が御亭主の為にポンポコどてらを縫い上げてくるかという心配。何しろ、東京の人はこれまで袷で冬を越しているから綿入着物が・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・畑などどしどし宅地に売られ、広い地所をもった植木屋は新しい切り割り道を所有地に貫通させ、奥に、売地と札を立てた四角い地面を幾区画か示している。私なら、ああいう場処に住むのはいやと思った。新開地で樹木が一本もなく赭土がむき出しなばかりではない・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
出典:青空文庫