・・・そして、じっと眼を見交わす。二人の眼には、露の玉が光っている。 二人はまた歩き出す。絃の音は、前よりも高くふるえて、やがて咽ぶように落ち入る。 ヴァイオリンの音の、起伏するのを受けて、山彦の答えるように、かすかな、セロのような音が響・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・ 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬いて、泣面をかきそうな顔を、じっと押堪えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている主の目によく見えた。「忘れもしねえ、・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・そしてじっと、利平の顔を見た……と思った、その眼、その眼……。 利平は、あわてて障子を閉め切った。「あの眼だ、あの眼だ、川村もあの眼だ!」 利平は、おしつぶされるように、寝床に坐ってしまった。「あんた、利助はどうして会社から・・・ 徳永直 「眼」
・・・荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで凉んでいると、往来際には荷車の馬が鬣を垂して眼を細くし、蠅の群れを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応えているなんて楽な刺戟ではない。時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的という・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ 吉里は猪口を受けて一口飲んで、火鉢の端に置いて、じっと善吉を見つめた。 吉里は平田に再び会いがたいのを知りつつ別離たのは、死ぬよりも辛い――死んでも別離る気はなかッたのである。けれども、西宮が実情ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。 アーアーいやにな・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・ 歩哨は剣をかまえて、じっとそのまっしろな太い柱の、大きな屋根のある工事をにらみつけています。 それはだんだん大きくなるようです。だいいち輪廓のぼんやり白く光ってぶるぶるぶるぶるふるえていることでもわかります。 にわかにぱっと暗・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・けれども、じっと見るとどんな熱情的な恋愛をしている人でも、人間として他方面の必然な生活条件は満しています。生活の大河は、その火花のような恋、焔のような愛を包括して怠みなく静かに流れて行く。確かに重大な、人間の霊肉を根本から震盪するものではあ・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
出典:青空文庫