・・・の静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアルのエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情緒の水のささやきが、靄の底を流れる大川・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・下に寝ねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻を乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、汝の夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等も不便なり、活計の術を教うるなりとて、すなわち餡の製法・・・ 泉鏡花 「一景話題」
雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。…… 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降って・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い農家だけに、節穴だらけ、だから、覗くと、よく見えました。土間の向うの、大い炉のまわりに女が三人、男が六人、ごろんごろん寝ているのが。 若い人が、鼻紙を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・蓄妾もまた、勝誇った田舎侍が分捕物の一つとして扱ったから、昔の江戸の武家のお部屋や町家の囲女の情緒はまるで失くなって、丁度今の殖民地の「湾妻」や「満妻」を持つような気分になってしまった。当時の成上りの田舎侍どもが郷里の糟糠の妻を忘れた新らし・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・一体馬琴は史筆椽大を以て称されているが、やはり大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。線の太い歴史物よりは『南柯夢』や『旬殿実々記』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路や雛衣の口説が称讃されて・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・知的分子もあるに相違ないが、情緒の加わらぬ芸術はない。此の意味に於て芸術は、常に永久性を持っているものである。芸術の与うる感じは愉悦の感じでなければならぬ。男性的のものゝ中にも女性を帯びたものでなければならぬ。言を換えていえば芸術の姿其れ自・・・ 小川未明 「若き姿の文芸」
・・・ それと同じでんで、大阪を書くということは、例えば永井荷風や久保田万太郎が東京を愛して東京を書いているように、大阪の情緒を香りの高い珈琲を味うごとく味いながら、ありし日の青春を刺戟する点に、たのしみも喜びもあるのだ。かつて私はそうして来・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ 喫茶店や料理店の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・しかし、描かれた肉体は情緒のヴェールをかぶり、観念のヴェールをかぶり、あるいは文学青年的思考のデカダンスが、描かれた肉体をだしにしているという現状では、やはりサルトルの「水いらず」は一つの課題になるかも知れない。新しい文学が起ろうとする時に・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫