・・・ 青侍は、色のさめた藍の水干の袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。後の竹籔では、頻に鶯が啼いている。「それが、三七日の間、お籠りをして、今日が満願と云う夜に、ふと夢を見・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・翁は経机の向うに白の水干の袖を掻き合せて、仔細らしく坐っている。朦朧とはしながらも、烏帽子の紐を長くむすび下げた物ごしは満更狐狸の変化とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯の暗いにも関らず気高くはっきりと眺められた。・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ 死骸は縹の水干に、都風のさび烏帽子をかぶったまま、仰向けに倒れて居りました。何しろ一刀とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳に滲みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾い・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 鼻の前を、その燈が、暗がりにスーッと上ると、ハッ嚔、酔漢は、細い箍の嵌った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向けに目を明けた。「ああ、待ったり。」「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可ません。」「貸し・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・御輿舁ぎは奥の院十八軒の若い衆が水干烏帽子だ。――南無大師、遍照金剛ッ! 道の左右は人間の黒山だ。お捻の雨が降る。……村の嫁女は振袖で拝みに出る。独鈷の湯からは婆様が裸体で飛出す――あははは、やれさてこれが反対なら、弘法様は嬉しかんべい。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・という眼におそれを成して、可能性の文学という大問題について、処女の如く書き出していると、雲をつくような大男の酔漢がこの部屋に乱入して、実はいま闇の女に追われて進退谷まっているんだ、あの女はばかなやつだよ、おれをつかまえて離さないんだ、清姫み・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ポン引が徘徊して酔漢の袖を引いているのも、ほかの路地には見当らない風景だ。私はこの横丁へ来て、料理屋の間にはさまった間口の狭い格子づくりのしもた家の前を通るたびに、よしんば酔漢のわめき声や女の嬌声や汚いゲロや立小便に悩まされても、一度はこん・・・ 織田作之助 「世相」
・・・工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。 なぜ、おれは嫉妬しないのだろう。やはり、おれは、自惚れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、も・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫