・・・――おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから―― その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶの夥間だったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光を浴びながら、健康に育った子供の時分のことを想いだして、不甲斐なくなった自分の神経をわれと憫笑してい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
書房を展開せられて、もう五周年記念日を迎えられる由、おめでとう存じます。書房主山崎剛平氏は、私でさえ、ひそかに舌を巻いて驚いたほどの、ずぶの夢想家でありました。夢想家が、この世で成功したというためしは、古今東西にわたって、・・・ 太宰治 「砂子屋」
・・・外からバタバタ眼つきをかえて駈け込んで来て、いきなり、ずぶりですからね。」「踏んだのか。」「ええ、きょう配給になったばかりのおミソをお重箱に山もりにして、私も置きどころが悪かったのでしょうけれど、わざわざそれに片足をつっ込まなくても・・・ 太宰治 「眉山」
・・・傘を持って来なかった、ことによると帰るまでにはずぶ濡になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭々と降る、容易に晴れそうにもない。 五六間先にたちまち白い者が見える。往来の真中に立ち留って、首を延してこの白い者をすかしているうち・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・『これはきっと颶風ですね。ずぶんひどい風ですね。』 すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って『家が飛ばないじゃないか。』と云うと子供の助手はまるで口を尖らせて、『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ その日はまっ白なやわらかな空からあめのさらさらと降る中で虔十がただ一人からだ中ずぶぬれになって林の外に立っていました。「虔十さん。今日も林の立番だなす。」 簑を着て通りかかる人が笑って云いました。その杉には鳶色の実がなり立派な・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・「どうせずぶぬれだ。」慶次郎も云いました。 雨つぶはだんだん数が増して来てまもなくザアッとやって来ました。楢の葉はパチパチ鳴り雫の音もポタッポタッと聞えて来たのです。私と慶次郎とはだまって立ってぬれました。それでもうれしかったのです・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・ヒームカさんも蛇紋石のきものがずぶぬれだろう。」「兄さん。ヒームカさんはほんとうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、ここからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だま・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・そして如露でシャーとかけましたのでデストゥパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。 そして工合のわるいのをごまかすように、「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給え。」と勢よく云いながら、すばやく野原のな・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
出典:青空文庫