・・・私はその衣ずれのようなまた小人国の汽車のような可愛いリズムに聴き入りました。それにも倦くと今度はその音をなにかの言葉で真似て見たい欲望を起したのです。ほととぎすの声をてっぺんかけたかと聞くように。――然し私はとうとう発見出来ませんでした。サ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・門を出でぬ、貴嬢はここの梅林を憶えたもうや、今や貴嬢には苦しき紀念なるべし、二郎には悲しき木陰となり、われには恐ろしき場処となれり。門を出ずれば角なる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て微かに礼なしぬ、貴嬢はこ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・馬ようやく船に乗りて船、河の中流に出ずれば、灘山の端を離れてさえさえと照る月の光、鮮やかに映りて馬白く人黒く舟危うし。何心なくながめてありしわれは幾百年の昔を眼前に見る心地して一種の哀情を惹きぬ。船回りし時われらまた乗りて渡る。中流より石級・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そして外から見るとは大違い、先生の家は陰気どころかはなはだ快活で、下男の太助はよく滑稽を言うおもしろい男、愛子は小学校にも行かぬせいかして少しも人ずれのしない、何とも言えぬ奥ゆかしさのあるかあいい少女、老先生ときたらまるで人のよいお祖父さん・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・ 青年学生はいずれ関心事たる恋愛につき、いろいろな説を参考するもよかろう。また文芸や、映画でその種々相に触れずにもいないわけである。だが結局は自分の胸にわいてくるイメージと要請とをもって、自分たちの恋の世界を要求し、つくり出すべきだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・かりなく、おそるおそる行くての方を見るに、空は墨より黒くしていずくに山ありとも日ありとも見えわかず、天地一つに昏くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・小鳥では無いまでも、いずれ暖い洞窟が待っているのでは無い獣でもあるか。 薄筵の一端を寄せ束ねたのを笠にも簑にも代えて、頭上から三角なりに被って来たが、今しも天を仰いで三四歩ゆるりと歩いた後に、いよいよ雪は断れるナと判じたのだろう、「・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・いても、作家の人物月旦やめよ、という貴下の御叱正の内意がよく分るのですけれども私には言いぶんがあるのです。まだ、まだ、言いたいことがあると申し上げる所以なのです。いずれ書きます。どうぞからだを大事にして下さい。不文、意をつくしませぬが、御判・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私の声は、人並はずれて高いのである。 私は、笑いながら、「ここにも、僕の宿命がある。」 湯河原。下車。「何もない、ということ、嘘だわ。」Kは宿のどてらに着換えながら、そう言った。「この、どてらの柄は、この青い縞は、こんな・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・ 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫