・・・道子の姓名は田中道子であった。それが田村道子となっているのは、たぶん新聞の誤植であろうと、道子は一応考えたが、しかしひょっとして同じ大阪から受験した女の人の中に自分とよく似た名の田村道子という人がいるのかも知れない、そうだとすれば大変と思っ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・ その意味では、その目撃者はかなり重要な人物だと、云ってもよいから、まずその姓名を明らかにして置こう。 小沢十吉……二十九歳。 その夜、小沢は土砂降りの雨にびっしょり濡れながら、外語学校の前の焼跡の道を東へ真直ぐ、細工谷町の方へ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・私の生命力といったようなものが、涸渇してしまったのであろうか? 私は他人の印象から、どうかするとその人の持ってる生命力とか霊魂とかいったものの輪郭を、私の気持の上に描くことができるような気のされる場合があるが、それが私自身のこととなると、私・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。何という錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ この一物は姓名も原籍も不明というので、例のとおり仮埋葬の処置を受けた。これが文公の最後であった。 実に人夫が言ったとおり、文公はどうにもこうにもやりきれなくって倒れたのである。・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・目であったが、自分でも少し可笑しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味を含ませて、「何となれば、女は欠伸をしますから……凡そ欠伸に数種ある、その中尤も悲むべく憎くむ可きの欠伸が二種ある、一は生命に倦みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・女姓名だけに金貸でも為そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜った。 五月十三日 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢の向うに坐っていて、可怕い顔して自分を迎えた。鉄瓶には徳利・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・『彼人とはだれのことか、』自分はここにその姓名を明かしたくない、単に『かれ』と呼ぼう。 かれは一個の謎である。またかれは一個の『悲惨』である。時代が人物を生み、人物が時代を作るという言葉があるが、かれは明治の時代を作るために幾分の力・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ すなわち一つは宇宙の生命の法則の見地から見て、かりのきめであって、固執すると無理があるということだ。も一つはたとい多少の無理を含んでいても、進化してきた人間の理想として、男女の結合の精神的、霊的指標として打ち立て、築き守って、行くべき・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・のである。医者は生と、精神の課題に、弁護士は倫理と社会制度の問題に、軍人は民族と国際協同の問題に接触せずにはおられない。その最も適切の例証は、最近に結成せられた「産業技術連盟」の声明書である。それは純粋に専門的な技術家のみの結社であるが、技・・・ 倉田百三 「学生と読書」
出典:青空文庫