・・・何んでも早く青木から身受けの金を出させようと運動しているらしく、先刻もまた青木の言いなり放題になって、その代りに何かの手筈を定めて来たものと見えた。おッ母さんから一筆青木に当てた依頼状さえあれば、あすにも楽な身になれるというので、僕は思いも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ハッと思って女中を呼んで聞くと、ツイたった今おいでになって、先刻は失礼した、宜しくいってくれというお言い置きで御座いますといった。 考えるとコッチはマダ無名の青年で、突然紹介状もなしに訪問したのだから一応用事を尋ねられるのが当然であるの・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すことのできる遺物でないから最・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・赤い鳥は驚いて、雲をかすめて、ふたたび夕空を先刻きた方へと、飛んでいってしまいました。 子供は、しょんぼりとそこを立ち去りました。この哀れな有り様を見た若者は、群衆を憎らしく思いました。自分も困っていたのですけれど、まだわずかばかりの金・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・その言葉の裏は、死の宣告だった。癌の再発は治らぬものとされているのだ。余り打たぬようにと、医者は寺田の手に鎮痛剤のロンパンを渡した。モルヒネが少量はいっているらしかった。死ぬときまった人間ならもうモルヒネ中毒の惧れもないはずだのに、あまり打・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心とも分らぬ心が辛うじて出た。自分への残酷めいた快感もあった。 柳吉と一緒に大阪・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 胸を病んでいると宣告されたような不安な顔をわざとして見せたが、そのくせちっとも心配なぞしていなかった。むしろいそいそとした気持だった。 その晩、道子は鏡台の傍をはなれなかった。掛けてははずし、はずしては掛け、しまいに耳の附根が痛く・・・ 織田作之助 「眼鏡」
・・・それには丁度先刻しがた眼を覚して例の小草を倒に這降る蟻を視た時、起揚ろうとして仰向に倒けて、伏臥にはならなかったから、勝手が好い。それで此星も、成程な。 やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の痛手だから、なかなか起られぬ。到底も無益だと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 今にも泣き出しそうに瞬たいている彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すように、斯う云った。 二 ………… 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寝ていたのであった。身体中そ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 彼はそうした自分のことを細かく訊かれるのを避けるつもりで、先刻から気にしていたことを口に出した。「馬鹿云え……」横井は斯う云って、つくばったまゝ腰へ手を廻して剣の柄を引寄せて見せ、「見給え、巡査のとは違うじゃないか。帽子の徽章・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫