・・・お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮してい・・・ 島崎藤村 「食堂」
「比佐さんも好いけれど、アスが太過ぎる……」 仙台名影町の吉田屋という旅人宿兼下宿の奥二階で、そこからある学校へ通っている年の若い教師の客をつかまえて、頬辺の紅い宿の娘がそんなことを言って笑った。シとスと取違えた訛のある・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・私が二度も罹災して、とうとう津軽の兄の家へ逃げ込んで居候という身分になったのであるが、簡易保険だの債券売却だのの用事でちょいちょい郵便局に出向き、また、ほどなく私は、仙台の新聞に「パンドラの匣」という題の失恋小説を連載する事になって、その原・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・もともと、この家族は、北多摩郡に本籍を有していたのであったが、亡父が中学校や女学校の校長として、あちこち転任になり、家族も共について歩いて、亡父が仙台の某中学校の校長になって三年目に病歿したので、津島は老母の里心を察し、亡父の遺産のほとんど・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・私たちも、先代以来なみなみならぬお世話になって居りますから、こんな機会に少しでもお報いしたいと思っているのです。」と、真面目に言った。 私は、忘れまいと思った。「中畑さんのお骨折りです。」北さんは、いつでも功を中畑さんにゆずるのだ。・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣の着物にセルの袴、三田君は学生服で、そうし・・・ 太宰治 「散華」
・・・ このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラの匣」という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・六年前に先代がなくなって、すぐに惣兵衛氏が、草田の家を嗣いだのである。 夫人は、――ああ、こんな身の上の説明をするよりも、僕は数年前の、或る日のささやかな事件を描写しよう。そのほうが早道である。三年前のお正月、僕は草田の家に年始に行った・・・ 太宰治 「水仙」
・・・という雑誌は、ご承知の如く、仙台の河北新報社から発行せられて、それは勿論、関東関西四国九州の店頭にも姿をあらわしているに違いありませぬが、しかし、この雑誌のおもな読者はやはり東北地方、しかも仙台附近に最も多いのではないかと推量されます。・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・呉服屋の豊田さんなら、私の家と同じ町内でしたから、私はよく知っているのです。先代の太左衛門さんは、ふとっていらっしゃいましたから、太左衛門というお名前もよく似合っていましたが、当代の太左衛門さんは、痩せてそうしてイキでいらっしゃるから、羽左・・・ 太宰治 「トカトントン」
出典:青空文庫