・・・ 私は先年堺へ来たことがあります。これはよほど前私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になりますか、何でもよほど久しい事のように記憶しております。実を言うと今登った高原君、あれは私が高等学校で教えていた時分の御弟子であります。ああいう立派・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・次に御話したいのは先年来自然主義をある一部の人が唱え出して以後世間一般ではひどくこれを嫌ってはては自然主義といえば堕落とか猥褻とかいうものの代名詞のようになってしまいました。しかし何もそう恐れたり嫌ったりする必要は毫もないので、その結果の健・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・ある晩いつもの通り書斎で専念にペンの音を聞いていると、突然縁側の方でがたりと物の覆った音がした。しかし自分は立たなかった。依然として急ぐ小説を書いていた。わざわざ立って行って、何でもないといまいましいから、気にかからないではなかったが、やは・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・然るに、徳教書編纂の事は、先年も文部省に発起して、すでに故森大臣の時に倫理教科書を草し、その草案を福沢先生に示して批評を乞いしに、その節、先生より大臣に贈りたる書翰ならびに評論一編あり。久しく世人の知らざるところなりしかども、今日また徳教論・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・ 先年物故した或る作家の遺族の話が出た折、ある事情に通じたひとが「こんなになる位なら、早く結婚させてやるのだった」云々という意味のことを云い、その、させてやる云々という言葉づかいのうちにある重い、家長権的な表情を、私は一人の女として苦痛・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・「学問の自由を剥奪することがいかに危険なことであるかは、先年来すでに苦しい経験ずみであるにもかかわらず、今日またしてもこのような問題がくりかえされなければならないということは、正直にいって情ないとでもいうより他はない。」「しかし問題は実はこ・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・ 並木通新聞という言葉がある。 先年、モスクワ駐在の不幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであ・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ この芸術に専念する力を阻止するもの、今それをデリケートな問題として見るならば、生理的方面からは、女の持った細かい神経の動きが、生活感情に影響することによって、その時々の生活感情に捉われ易いことです。これは男よりも女の方が細かく、正直に・・・ 宮本百合子 「今日の女流作家と時代との交渉を論ず」
・・・ 私一箇人としては、今迄の通り同性のそう云う運動に、好意と感謝を含めた沈黙の視線を向けながら、自分の選んだ道に専念しつづけるばかりです。〔一九二三年十一月〕 宮本百合子 「参政取のけは当然」
・・・ そして田野に円舞して、笑いさざめき歌を歌う生命の活気もなければ、専念に思考を練って穿ちに穿って行く強度も無く、表情が、力の欠乏に生気を失って居ると全く同様の状態が内奥の魂にまで食い入って居ります。愛する者をして愛さしめよ! 良人と自己・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫