・・・僕は君も知っている通り、元来体も壮健じゃない。その上僕は妻を愛そうと思っていても、妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、抑僕の愛なるものが、相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。だ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・目鼻立は十人並……と言うが人間並で、色が赤黒く、いかにも壮健そうで、口許のしまったは可いが、その唇の少し尖った処が、化損った狐のようで、しかし不気味でなくて愛嬌がある。手織縞のごつごつした布子に、よれよれの半襟で、唐縮緬の帯を不状に鳩胸に高・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・七左 壮健とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。白糸 難有う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。七左 はいはい。白糸 それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお幾人。七左 二人じゃ・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外に何らの答を為し得ない。 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶起して乳搾りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 何しろ当夜の賓客は日本の運命を双肩に荷う国家の重臣や朝廷の貴紳ばかりであった。主人側の伊井公侯が先ず俊輔聞多の昔しに若返って異様の扮装に賓客をドッと笑わした。謹厳方直容易に笑顔を見せた事がないという含雪将軍が緋縅の鎧に大身の槍を横たえ・・・ 内田魯庵 「四十年前」
上 秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園のベンチに腰をおろして休んでいる。老人とは言うものの、やっと六十歳で足腰も達者、至って壮健のほうである。 日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・今この波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談をちょっと示そう。但しいずれも自分が仮設したのでない、出処はあるのである。いわゆる「出」は判然しているので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハハハ。 これは二百年近く古い書に・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。 附言する。かかる全き放心の後に来る・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。こ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・また科学者がこのような新しい事実に逢着した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少なくも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出会うた場合には、その実用的の価値などには顧慮・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫