一 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・私は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇と俥に身を隠した私自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足踏み出したと思うと、「御主」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣の中には、いつどこからはいっ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・けれども譚は話半ばに彼等の姿を見るが早いか、殆ど仇にでも遇ったように倉皇と僕にオペラ・グラスを渡した。「あの女を見給え。あの艫に坐っている女を。」 僕は誰にでも急っつかれると、一層何かとこだわり易い親譲りの片意地を持合せていた。のみ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 幕引きの少尉は命令通り、呆気にとられた役者たちの前へ、倉皇とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめきの声のほかは、ひっそりと静まり返ってしまった。 外国の従軍武官たちと、一つ席にいた穂積中佐は、この沈黙を気の毒に思・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。僕は彼是三日ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に寝泊りしていた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしていた或愛蘭土の新聞記・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・尼提はこう言う如来の前に糞器を背負った彼自身を羞じ、万が一にも無礼のないように倉皇と他の路へ曲ってしまった。 しかし如来はその前に尼提の姿を見つけていた。のみならず彼が他の路へ曲って行った動機をも見つけていた。その動機が思わず如来の頬に・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・ 又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受附を勤めし事ありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・から車が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇と店先の暖簾をくぐりました。 泰・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・迫った太い眉に、大い眼鏡で、胡麻塩髯を貯えた、頤の尖った、背のずんぐりと高いのが、絣の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈な腕を、客商売とて袖口へ引込めた、その手に一条の竹の鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後は尾・・・ 泉鏡花 「露肆」
出典:青空文庫