・・・ 六人の一人は巡査、一人は医者、三人は人夫、そして中折れ帽をかぶって二子の羽織を着た男は村役場の者らしく、線路に沿うて二三間の所を行きつもどりつしている。始終談笑しているのが巡査と人夫で、医者はこめかみのへんを両手で押えてしゃがんでいる・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話しているのを見た。見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 人間が、文化と、精神と霊とを持っているのでなかったら夫婦道というものは初めから無理で意味をなさないのだから、夫婦になる以上は性に関する、文化的、精神的、霊的要求を充分に夫婦道に盛るべきだ。そういう愛を互いに期待すべきだ。だからこのごろ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 燃えるような恋をして、洗われる芋のように苦労して、しかも笛と琴とのように調和して、そしてしまいには、松に風の沿うように静かになる。それが恋愛の理想である。 ダンテを徳に導いた淑女ベアトリーチェ。ファウスト第二部の天上のグレーチヘン・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・今更に何をか嘆かむ打ち靡き心は君に依りにしものを 調和した安らかな老夫婦は実に美しく松風に琴の音の添うような趣きがあって日本的の尊さである。 君臣、師弟、朋友の結合も素より忍耐と操持とをもってではあるが終わりを全うするも・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえってあぶないようだ。あまりに慾張って、肥料を吸収しすぎた麦は、実らないさきに、青いまゝ倒れて、・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・ 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から憲兵が腕をとって引きたてゝていた。老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・だら/\流れ出た血が所々途絶え、また、所々、点々や、太い線をなして、靴あとに添うて走っていた。恐らく刃を打ちこまれた捕虜が必死に逃げのびたのだろう。足あとは血を引いて、一町ばかり行って、そこで樹々の間を右に折れ、左に曲り、うねりうねってある・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・特にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔話をして今の学生諸君に御聞かせ申そうというような事は、実際ほとんど無いと云ってもよいのです。ですから平に御断りを致します・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然としても心も昧くなるような気持がして、しかもその薄すりと霞んだ霞の底から、桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛女郎衆も、桑を摘め。と清い清・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫