・・・ 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒へ水を汲みに来た。 雨の脚が強くなって、とゆがごくりごくり喉を鳴らし出した。 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。 信子の着物が物干竿にかかったま・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・自分も即答はしかねたが、加藤男爵の事についてかねていくらか考えてみた事のあるので、「そうですねえ、まるきりがっかりしないでもないだろうと思う、というわけは、戦争最中はお互いにだれでも国家の大事だから、朝夕これを念頭に置いて喜憂したのが、・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・いや、井戸の水を吸上喞筒で汲みだしている若い女を見つめている。それでよいのだ。はじめから僕は、あの女を君に見せたかったのである。 まっ白いエプロンを掛けている。あれはマダムだ。水を汲みおわって、バケツを右の手に持って、そうしてよろよろと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・その人はわたくしの一存では賠償金の多寡は即答する事ができないと云うので、結局はなしはまとまらず、山本さんと僕とは空しく退出した。そして三四日の後、山本さんの手から賠償金数千円を支払うことになった。僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行っ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・明日の御みおつけの実は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから……」「何だい御みおつけと云うのは」「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけと云うのだ。まずその汁の実を何に致しましょうと聞かれると、実・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・飴を煮て四斗樽大の喞筒の口から大空に注ぐとも形容される。沸ぎる火の闇に詮なく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ち騰る。深き夜を焦せとばかり煮え返るほのおの声は、地にわめく人の叫びを小癪なりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中には砕けて砕けたる粉が舞い上り・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫