・・・しかしそれは結局食欲をそそる媒介になるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も固唾を飲んだが火種のない所では南瓜を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時の間にか寝入っていた。 居鎮まって見ると隙間もる風・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ と、言って、あわてて帰って行ったが、むやみに尻を振り立てたその後姿が一層醜く見え、もうそれはおれの変な気持をそそるのを通り越した、むくつけき感じだったから、以後、おれもそんな振舞いに出るようなことはなかった。 ところで、お前は妾の・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨んでいた。 まえまえから、蝶子はチラシを綴じて家計簿を作り、ほうれん草三銭、風呂銭三銭、ちり紙四銭、など・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・という歌にも似た女だと、うっかり彼女に言い寄って、ひどい目に会う学生が多い――それほどお加代は若い男の心をそそる魅力を持っていた。 それかあらぬか、仲間の男たちは、「ヒンブルの加代のことを考えると、何だかやるせなくなって来る」 ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠くの禿山に転じた、姫小松の生えた丘は静に日光を浴びている、その鮮やかな光の中にも自然の風物は何処ともなく秋の寂寥を帯びて人の哀情をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情をそそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想を起す。旅だ――五月・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・埼玉気分をそそるような機場の機の音も聞えて来ている。お三輪はほんの一時落ちつくつもりで伜の新七が借りてくれた家に最早一年も暮して来た。彼女は、お富や孫達を相手に、東京の方から来る好い便りを待ち暮した。 一年前の大きな出来事を想い起させる・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・なんだかじわじわ胸をそそるよ。」 私もふるさとのことを語りたくなった。「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香はいいぞ。」「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だか・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・と思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだか侘しいような惜しいような気がして、「己も今少し若ければ……」と二の矢を継いでた・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・話は六かしくて大抵は分からなかったが、ほんのわずかばかり分かることが無限の興味と刺戟を与え、そうして分からない大部分への憧憬と知識慾をそそるのであった。それよりも、先生方や先輩達の、本当に学問に余念のない愉快な態度が嬉しかった。今はもう皆故・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
出典:青空文庫